リハビリテーション医療の開拓者=石川誠・医療法人社

2017.08.29

ワイドインタビュー問答有用〕/659 リハビリテーション医療の開拓者=石川誠・医療法人社団輝生会理事長

2017.09.05 エコノミスト  


 かつて「温泉地療養」程度の認知度だった日本のリハビリテーション(リハビリ)。それを石川誠さんは患者の自立を促す「医療サービス」として確立した。超高齢化時代に突入する中、早期の社会復帰を支援する手段として注目されている。
(聞き手=稲留正英・編集部)

 ◇「住み慣れた地域で、十分なリハビリを提供します」

 ◇「医師の白衣も無くし、チーム全員が着るユニフォームにしました」

── 傘下の初台リハビリテーション病院は、巨人軍元監督の長嶋茂雄さん、サッカーの日本代表チームの元監督のイビチャ・オシムさんのリハビリで話題となりました。そもそも、リハビリ医療とはどういうものでしょうか?
石川 病気になっても障害を持っていても、人が元気で生きていくことを支援する医療です。「病気」の反対語を皆さんは「健康」と思うでしょうが、本当は「元気」、「元の気持ちに戻す」ことなんです。病気になっても、リハビリで何とかなると思えたら、がぜん、障害を抱えた人も要介護の人も気持ちが明るくなります。リハビリはつらくて苦しいものではなく、明るく楽しく生きるためのものです。
── 初台リハビリテーション病院に入ると、ホテルのロビーのような受付やカフェテリアがあり、絵画や調度品など、一見、病院とは思えません。
石川 院内に入った瞬間に病院とは思えないように、病院の雰囲気やにおいを消すように努めました。リハビリをする人は病気やけがで障害を持った普通の人なのだから、元気になりましょう、という雰囲気を作りたかった。医師の白衣も無くし、理学療法士(PT)、作業療法士(OT)、言語聴覚士(ST)、ソーシャルワーカーといったチーム全体で統一のポロシャツのユニフォームにしました。
── 従来、リハビリ病院というと温泉保養地や郊外など、土地代や人件費の安いところにある印象が強いのですが、初台は東京・渋谷区と都心のど真ん中にあります。
石川 人口が多く、高齢化も進む都市部にこそ、リハビリ病院が必要です。特に、東京23区内では急速に進む高齢化に対応したリハビリ医療サービスが不足しています。リハビリは病気になってからできるだけ早く集中的に行うことが効果的です。初台では、発症してから1カ月以内の患者さんを最初に治療した急性期病院から受け入れ、回復期のリハビリをします。住み慣れた地域や自宅で、十分なリハビリ医療を提供することを目的としています。

 初台の場合はベッドが173床あるのに対し、常勤スタッフはその2・6倍の450人いる。これは、現行のリハビリ制度で求められた必要数を大幅に上回る。入院した患者は初日にまず、リハビリ医師、PT、OT、ST、ソーシャルワーカー、看護師などからなるチームの集中面談を受け、リハビリ計画が策定される。初台の特徴は、リハビリが365日休みなく実施され、1日のリハビリ時間も午前と午後に各3時間と多いことだ。通常、急性期病院でのリハビリは1日1時間程度で、土日祝日、年末年始は休みのことが多い。この発症後早い段階での集中的なリハビリ治療が早期の機能回復を実現している。

 ◇経営を重視

── これだけ人手をかけて、採算に合うのでしょうか。
石川 経営が赤字では、社会にリハビリ制度の普遍化は起きません。人件費はぐっと上がるため、一般床以外の個室ベッドの患者さんからは差額室料をもらうことになります。そのためには食事をはじめ、ありとあらゆるところに患者さんが納得するだけのサービスを提供するしかありません。だから、ベッドの稼働率はいつも100%に近く、人件費をまかなうことが可能になります。
── そもそもリハビリ医療に関わるきっかけは?
石川 1973年に群馬大学の医学部を卒業し、脳外科に入りました。
 3年目に長野県の佐久総合病院に行けと命じられました。ここで運命の出会いがありました。院長の若月俊一さんです。農村医学では世界でトップランクの人です。

 農村医学は、農業に起因する病気や、農機具などによる傷害を研究し、その解決を図ることを目的とする。若月氏は佐久総合病院でその農村医学を確立した。石川さんは、若月氏から、「医療というのはすべからく地域医療だ。地域抜きの医療なんてありはしない」ことをたたき込まれた。

石川 ある時、良かれと思って手術した患者さんが寝たきりになってしまいました。若月院長が往診に来て、患者さんをつねりますがピクリともしない。カルテを見ると「歩いて入院した」と書いてある。若月先生は「君が手術をしたのだから、君が家族の問題も含めて全責任をとるんだね」と肩をポンポンたたく。私は頭の中が真っ白になりました。
 その時、リハビリが役に立つのではないかと思いました。同じ長野県の鹿教湯(かけゆ)温泉のリハビリセンターに研修に行くと、「これは面白そうだ。本格的に勉強すれば、若月先生の問いに応えられるのでは」と、どんどん夢が膨らんでいきました。
 しかし、そうしているうちに、「石川は忙しい脳外科をやめて、リハビリに移ろうとしている」と“危険視”され、大学に連れ戻されることに。でも、大学の脳外科に戻っても仕事をしたくない。結局、最後は、大学を辞めることになりました。
── その後はどちらに。
石川 その時、東京の虎の門病院からスカウトされました。虎の門病院は本院は港区の虎ノ門にありますが、分院は川崎市高津区にあり、そこでリハビリテーションをしていました。何よりも勉強になったのは看護体制です。当時の日本の病院は「付き添い看護」が普通で、家族や家政婦が24時間、患者の身の回りの世話をしていました。しかし、虎の門病院は、付き添いのない基準看護(看護師が医療上の目的で身の回りの世話をする)で、患者を寝たきりにせず、自立するよう「起こす」看護を徹底して実践していました。
 この看護にPT、OT、STやソーシャルワーカーががっちり組めば鬼に金棒だと思いました。ところが、現実にはそうしたリハビリテーション病院は日本には1カ所もありません。
── 虎の門病院では実現はできなかったのですか。
石川 佐久総合病院で地域医療をたたき込まれたので、地域の住民とともに医療サービスをしたいと考えました。しかし、虎の門は地域と隔離されているような病院ですから、どうも肌に合わない。その時に、高知県の近森病院から、リハビリテーション科長の誘いがあり、86年に赴任しました。
 近森病院は高知駅から歩いて3~4分の立地にあり、都市型のリハビリテーション病院を実現するのに最適の場所にあります。救急外来と集中治療室があるバリバリの急性期病院です。しかし、旧態依然の付き添い看護で、寝たきりの患者さんを数えたら120人もいました。そこで、PT、OT、STやソーシャルワーカーとチームを組み、付き添いの家政婦さんには辞めてもらい、看護師が看護をするようにした。患者さんを片っ端から起こしていくと、その中から良くなる人がどんどん出てくる。古い病棟を取り壊し、89年、近森リハビリテーション病院を創りました。

 ◇高知で夢を実現

石川 しかし、退院させるとまた、寝たきりになる。フォローアップがいるということで、96年、在宅総合ケアセンターを設立し、翌年に近森病院本院に急性期のリハビリ施設を整備しました。これにより、急性期、回復期、生活・維持期の三つのステージのリハビリを担う施設がそろいました。
── 夢が実現しました。
石川 そうすると、厚生省(現厚生労働省)の官僚が面白そうなことをやっていると見学に来るようになりました。当時、厚生省は介護保険制度を作ろうとしていました。だが、急性期から介護に移ってしまうと、寝たきりになってしまう。そこで、日本にはリハビリ病院が足りないと気付き、2000年の診療報酬の改定時に、「回復期リハビリテーション病棟」制度を導入しました。
── 新制度の導入で、リハビリの広がりは。
石川 94年にはリハビリに関する診療報酬の保険点数が2割増えていたこともあり、私はこれでリハビリ病院が広がると思いました。ところが、なかなか広がらない。みんな、ハードルが高いとか、スタッフが雇えないとか否定的なことばかりを言う。しかし、私が土地も人件費も高い東京でできることを実証したなら、地方ではできない理由は無くなる。そこで東京でやることにしました。
── どのように東京に「逆進出」したのですか。
石川 最初はお金がないので、在宅リハビリから始めました。98年に元浅草の貸しビルにクリニックを出しました。しかし、在宅リハビリを中心にやるほど、リハビリ病院がないと駄目だと気がつきました。そこで02年に初台リハビリテーション病院を設立することになったのです。
── 資金の手当てはどのように?
石川 大手警備会社のセコムの子会社であるセコム医療システム(東京・渋谷区)がリハビリに関心を持ち、同社幹部の布施達朗さん(現取締役会長)が私に連絡してきました。ところが、話を会社に持ち帰ると、リハビリはもうからないからと全員から反対された。そこで布施さんは一足飛びにセコム創業者の飯田亮代表に話を持っていきました。そうしたらなぜか飯田代表が私に会おうと。99年のことです。

 ◇セコム代表との奇遇

── なぜですか。
石川 これが奇遇で、飯田代表は、私の著書(『夢にかけた男たち ある地域リハの軌跡』(98年、三輪書店))を読んでいました。飯田代表は湘南高校時代にラグビー部を創設した経験があり、「ラグビーは良いよな、チームプレーだな」と1時間ばかりラグビーの話をしました。最後に、「東京にリハビリ病院がないなら、必要なものは必要だから作ろう」ということになり、即決で病院を建てるための資金を提供してもらえることになりました。本当にドラマというか、こんなことがあるかという話です。
── 石川さんもラガーマンだった。
石川 高校、大学とラグビーをしていました。高校は都立日比谷高校で体も大きいし、足も速かったのでラグビー部に勧誘されました。その時、2学年上のキャプテンが故町村信孝さん(自民党の政治家、官房長官や衆院議長を歴任)でした。練習は厳しく、鉄拳も飛んできて、すごく怖い。ところが、練習後、私が部室を掃除し、ボール磨きを終えるまで待っている。「石川、今日はしごいたから飲みに行くぞ」と可愛がってもらいました。高校生が学生服を着て、赤坂の街に飲みに行く。そんな日々でした。
── 医師になろうと思ったきっかけは?
石川 もともと土木をやりたかったので、東大の工学部を受けたのですが、全然受からない。町村さんからはラグビー魂だけでなく、酒、たばこなど悪いこともたくさん教わりました。それで2年間浪人しました。でも、医学部だったらあまり年齢は関係ないから、今度は医師を目指しました。たまたま入ったのが、群馬大学の医学部でした。
 入学したらまたラグビーざんまいの日々に。しかし、これがまた弱いチームで年間1勝もできない。これを本当に強くしたいとのめり込みました。キャプテンを2年間務め、ラグビーボールを触ったこともない連中を集め、タックルマシンに強敵のジャージを被せて突っ込ませる。それで確実に強くなる。東日本や医歯薬大学リーグでトップ、それぐらい強くなりました。その時の経験で、何もないところからでも、きちんと練習をすればものになるという自信を持ちました。これはとても大きな成功体験でした。
── その経験をどのように経営に。
石川 初台では医師も含め全員をさん付けで呼ぶことにしました。医師だけではリハビリはできません。PT、OT、ST、薬剤師、管理栄養士、歯科衛生士、ソーシャルワーカーなどあらゆる専門の人たちが同じテーブルについて意見を出し合って、治療やケアの方針を決めていく。医師が君臨するのではない。ラグビーの「One for All, All for One.(一人は全員のため。全員は一人のため)」の精神です。それを具現化しました。これが一番大きいですね。
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 ●プロフィール●
 ◇いしかわ・まこと
 1946年埼玉県生まれ。73年群馬大学医学部卒業。75年佐久総合病院脳神経外科医員、78年虎の門病院脳神経外科医員、86年近森病院リハビリテーション科長、89年近森リハビリテーション病院長、2002年初台リハビリテーション病院長。日本リハビリテーション医学会代議員・特任理事、回復期リハビリテーション病棟協会相談役、日本リハビリテーション病院・施設協会顧問も務める。


毎日新聞社