〔震災5年〕深掘りヒューマンドキュメント 被災地に生きる医療者たち 第2回 岩手・陸前高田に根を張る老医師

2016.04.16

〔震災5年〕深掘りヒューマンドキュメント 被災地に生きる医療者たち 第2回 岩手・陸前高田に根を張る老医師
2016.04.24 サンデー毎日

 懐かしい古里への帰還を巡り、住民が抱く不安材料のトップは、医療と介護施設の再開・充実だ。東日本大震災から5年。被災地医療のリアルを描く第2回の舞台は、岩手県で最も被害が大きかった陸前高田市。復興を医療から支えようと、東京の老医師が立ち上がった。


 陸前高田市を襲った最大17・6メートルの巨大津波は、岩手県内で最も多くの死者(1602人=関連死含む)、行方不明者(204人)を出した。4042棟の家屋が倒壊し、町の風景は、一日で変貌した(※)。

 壊滅した沿岸部には、高さ20メートル、総延長3キロのベルトコンベヤーが建設され、東京ドーム4杯分の土砂を運び入れ、土地のかさ上げ工事が行われてきた。昨年9月に工程を終え、復興のシンボルであったベルトコンベヤーは、今秋までに解体される。

 2月末、済生会陸前高田診療所所長・伊東紘一医師(75)の往診に同行し、市内矢作町(やはぎちょう)にある打越仮設を訪ねた。

 大條(おおえだ)陽一さん(82)宅に着いた時、ぱらぱら降っていた小雨は雪に変わった。

「あの日も寒くて、霙(みぞれ)が降ってたね」

 そう言いながら、妻の啓子さん(77)が温かいコーヒーを入れてもてなす。陽一さんは震災以前に脳梗塞(こうそく)で倒れ、左半身に麻痺(まひ)が残るが、装具を着ければ自力で少しは移動ができる。

 5年前の3月11日、陽一さんは週に2回通っていた小規模多機能センターでデイサービスを受けていた。市内気仙町(けせんちよう)の自宅に一人でいた啓子さんは、揺れが収まるのを待って、近所の人たちと山へ逃げたという。

「この人と一緒にいたら、私の力では引っ張っていけないし、置いて逃げるわけにいかないから、二人ともダメだったね」(啓子さん)

 東京と盛岡にいる娘さんたちは、テレビで陸前高田の光景を見た時、両親は「もう亡くなっているだろう」と絶望したそうだ。避難所にいた啓子さんをNTTに勤務する知人が見つけ、連絡をとってくれた。

 翌日、迎えに来た盛岡の娘さんの家に避難したが、3カ月で戻ってきた。陽一さんが、住み慣れた町で暮らすことを望んだためだ。

 伊東医師の診察を受けるようになったのは今年1月から。それまでは不自由な体で県立高田病院まで通院していた。高田病院も以前は気仙町にあったが、被災して今は市内米崎町(よねさきちよう)の仮設で診療を続けている。

 伊東医師は月に2回、看護師を伴って訪れる。陽一さんには、肺気腫、貧血、排尿障害、軽いパーキンソン症状もある。診療所に初めて来た時、紹介状には「てんかん」と記され、そのために処方された薬で強い副作用が出ていた。

「よだれが出たり、体がグニャグニャになって歩けなかったんですね。薬をやめ、貧血の治療もしたら、1カ月ほどで改善した。真っ白だった顔色もピンク色になって、目つきまでよくなったね(笑)」(伊東医師)

 陽一さんは「すべて順調」と答え、満面の笑み。若い女性看護師を相手に、冗談交じりの会話を楽しんでいた。肺気腫による喘息(ぜんそく)の発作は吸入器で抑えている。往診で採血も行い、診療所に持ち帰って検査する。

「県立病院だと、ずいぶん待たされるんですよ」

 そう話す啓子さんも、診療所で内科と整形外科の治療を受けるようになった。

 伊東医師は東京生まれで、日本大医学部卒。駿河台日大病院循環器科、放射線医学総合研究所、山梨県岳麓赤十字病院などを経て、1975年から自治医大に赴任し、臨床検査医学講座教授、同大付属病院副院長を勤めた。2006年より茨城県の常陸大宮済生会病院長、13年に名誉院長となった。

 そんな伊東医師が陸前高田で診療所を始めたのは、ここが妻のカヅ子さん(68)の古里だからである。

 気仙川河畔の今泉地区がかつての市中心地で、カヅ子さんの実家もあった。伊達政宗に名字をもらい、気仙沼から釜石に至る沿岸部を管理していた「大肝入(おおきもいり)」(庄屋、役人)の吉田家。その分家で、醤油を商う「和泉屋」という老舗が、カヅ子さんの生家だった。

 震災前の今泉の写真を見ると、家々の軒が連なり、栄えていた様子がわかる。震災後は、それらがすべて瓦礫(がれき)の山と化したのだ。

「家内は、ここで拾った石を持ち帰って、一生懸命拝んでいました」(伊東医師)

 震災発生から1週間後、伊東夫妻は車にさまざまな物品を積んで現地に入り、行方不明になっていたカヅ子さんの母親と弟を捜した。遺体安置所となった体育館や公民館をいくつも回った。

「戦場に入るみたいでした。でも緊張していたせいか、不思議に怖くも気持ち悪くもなく、とにかく遺体を捜さなくちゃという思いだけでしたね」(カヅ子さん)


 ◇余生をこの地に捧げようと決意


 伊東医師は医療活動にも携わった。身元確認のために見た遺体は約800。陸前高田の犠牲者の半数に当たる。家族には見せたくない無残な遺体も多かったという。避難所にいる人たちの診察にも当たった。

 東京と陸前高田を何十回と往復したが、カヅ子さんが母親の吉田トシ子さん(当時86歳)と対面できたのは、6月のこと。既に火葬されていた遺骨の一体が、カヅ子さんのDNAと一致した。発見された当時の写真も警察署にあった。

「むごたらしいものでした。くいしばったような顔で、主人に聞いたら、これは窒息死だって」(カヅ子さん)

 弟の元男さん(当時58歳)は今も行方不明のままだ。

 伊東医師が余生をこの地の医療に捧(ささ)げようと決めた時、カヅ子さんは実家の土地3000坪(約1万平方メートル)を提供することにした。

 自治医大で地域医療の大切さを説いてきた伊東医師。診療所は、生活支援を含めた地域包括ケアシステムの場にしようと考えた。

「医療は時に癒やし、しばしば救い、常に慰む」

 目指す医療の姿だ。

「陸前高田は非課税世帯が3割もある。こういう貧しい人たちを助けなきゃいけない。済生会の理念です」

 済生会は「恵まれない人々のために施薬救療による済生の道を広めるように」という明治天皇の「済生勅語」に添えられた御下賜金を基金として創立された恩賜財団である。戦後、公的医療機関に指定され、社会福祉法人となった。

 伊東医師は済生会理事と話し合い、診療所開設を同会の復興支援計画に乗せた。しかし、済生会も慢性的な医師不足。地元との交渉も、スタッフの人選も、伊東医師が前面に立って進めてきた。「震災後、県外から進出する初の医療機関」として、地元に歓迎されるはずだと思った。

 ところが地元開業医の中には、「内科が増えたら、我々が食えなくなる」と言って反対する者がいた。折衝の末、「整形外科を入れるなら」との条件付きで了承をとりつけたという。

 伊東夫妻は昨年7月、東京の家を処分し、住民票を陸前高田に移した。平均12メートルもかさ上げされた市街地の高台には今後、住宅が建設されていく。診療所の開設予定地は4メートルかさ上げされ、当初はこの4月から建設着工の予定だったが、行政指導による土地養生のため、2カ月延期された。今年12月だった開院予定も、来年2月にずれ込んだ。

「一刻も早くしないと、被災者が戻ってこなくなる」と思った伊東医師は昨年10月、計画より1年以上早く診療を始めることにした。その仮設診療所は、本設予定地から気仙川を挟んで約1・6キロの竹駒町、陸前高田駅から徒歩10分ほどの場所にある。


 ◇開業医では難しい検査の迅速性


 JR大船渡線の気仙沼―盛(さかり)間43・7キロは、3年前からバス高速輸送システム(BRT)によって仮復旧した。つまり、駅といっても、実際はバスの停留所だ。

 この周辺に市役所、大型スーパー、薬局などが集まっており、いずれもプレハブの銀一色。“竹駒銀座”と呼ぶ人もいる。診療所は、スーパーの倉庫を借り受けて改装した平屋建ての171平方メートル。

 スタッフは、常勤の伊東医師のほか、非常勤医師2人、看護師5人と事務3人で計11人。整形外科は毎週金曜日、山形県や関東の八つの済生会病院から医師が交代で派遣されている。

 開所初日、5人が来院した。そのうち、「体がだるい」と訴えてきた男性(74)は貧血があり、触診すると脾臓(ひぞう)が腫れていた。エコーでも脾腫を確認し、血液疾患を疑った伊東医師は、所内で血液検査をして白血病と診断。すぐに、無菌室のある県立大船渡病院血液内科へ紹介した。

 最初にその男性患者と話をしたのは、待合室にいたカヅ子さんだった。

「最近疲れやすくて顔色も悪いので、周囲から病院に行くように勧められていたのに、病院嫌いで行かなかったそうです。でも、近くに診療所ができたから来たって言っていました」

 患者は大船渡病院で治療を受け、順調に経過。年末年始は一時帰宅でき、3月中旬には退院したという。

「この一例だけでも、1年早く始めたかいがあった」と、伊東医師は満足げだ。他にも、この半年で心筋梗塞、大腸がん、弁膜症、甲状腺腫などの患者を診断し、県立大船渡病院や気仙沼市立病院(宮城県)に送った。

「何よりここの素晴らしい点は、検査の迅速性です」

 そう断言するのは、助っ人の内科医、大谷寧子(やすこ)医師(61)。自治医大卒で、伊東医師を恩師と仰ぐ教え子の一人である。

「採血してその場で結果が出る。これは、一般開業医では絶対無理。金曜の午後受診して、月曜に採血の結果を聞きにいらっしゃい、なんて言ってると、増悪(ぞうあく)してしまう。白血病の診断が早かったのも、ここの検査があったからこそです」

 元臨床検査学教授で、超音波研究のスペシャリストでもある伊東医師。ただ、診療所には単純X線と超音波診断装置(エコー)はあるが、内視鏡やCTは備えていない。

 そのため、内視鏡検査は、市内の開業医で消化器専門医がいる鳥羽医院に任せ、CTやMRIが必要なら、県立大船渡病院に紹介する。県立高田病院にもCTはあり、入院(41床)や救急患者も受け入れているが、現在、手術は行っていないため、急性期の患者は紹介しにくい状況だ。

「だから実質的には大船渡病院か、越県して気仙沼市立病院に頼む以外ないわけです」(伊東医師)

 震災後、岩手県医師会が仮設診療所を開いたが、地元開業医が交代で診療に当たる態勢だったため、土曜・日曜主体の診療にならざるをえなかった。済生会の診療所ができたので、そこはすでに閉所されている。

「診療所や病院が頑張っていたら、戻ってくる人も増えて町づくりができ、地域の活性化に貢献できるだろうと思ってやっています」

 そう語る伊東医師の信条は、「医者は自分が死ぬ前の日まで患者のために働く」というもの。「本設診療所ができたら、20年は死ねないなあ」と笑う。


 ◇人々を見守る「一本松」のように


 昨年、在宅医療を2カ月続けた93歳女性を看取(みと)った。通院できない高齢者も多いだけに、往診を増やしたいが、そのためには、医師の数はまだ足りない。

「もちろん数だけでなく、質の高い医療を提供したい。最近は心療内科の必要性も感じています」

 診療所の待合室には、いつも朗らかなカヅ子夫人の姿がある。住民たちは、来院すると気軽に彼女と話をして帰る。診療所というよりサロンのようだ。中には、診療所を「和泉屋の病院」と呼ぶ人さえいる。震災から5年、ずっとしゃべれずにいた人が、ここへ来て一気に溜(た)まった思いを吐き出していったこともあった。

「山に駆け上がって助かった人は、建物を壊していく波が埃(ほこり)か煙みたいに見えたそうです。その人は奥さんが流されたし、消防団員がおばあちゃんを背負ったまま流される様子を、その息子さんが見ていたり、足の不自由な人が階段の途中まで来て流されたり……。地獄絵だったと思います。現実にそれを見た人たちが、今ごろになって、海を見るのが嫌だとか話すんです」

 月日がたって落ち着くのではなく、被災者の気持ちはずっと不安定なのだとカヅ子さんは話す。

 高脂血症のため来院した女性は、高台に家を建て、娘一家と新たな生活を始めた。しかし、話を聞くと、市役所職員だった30代の息子を震災で失くしていた。彼女の診察を終えた後、伊東医師が漏らした。

「やっぱり、継続的に診てくれる心療内科医が必要だな」

 傍らの看護師も言った。

「この時期になると、患者さんの気持ちに揺り戻しが来るみたいです。早く3・11が過ぎてほしい……」

 その日は、来年も再来年も、その先もまたやって来る。

 診療所を後にタクシーに乗ると、橋の上から「奇跡の一本松」が見えた。冷たい風雨に耐えながら、今も被災者を見守る細木。その根っこは枯れていることがわかったが、新たにこの地で根を張ろうとしている老医師がいる。

(ライター・山内喜美子)