〔学者に聞け!視点争点〕医療市場に存在する「情報の非対称性」

2015.06.13

〔学者に聞け!視点争点〕医療市場に存在する「情報の非対称性」=河口洋行
2015.06.16 エコノミスト 

 ◇政府は病院・医師の評価に本腰を

 厚生労働省は今年4月、患者が死亡する医療事故が発生した群馬大医学部付属病院と東京女子医大病院について、高度な医療を提供する「特定機能病院」の承認を取り消した。

特に、群馬大病院では同じ医師による肝臓の腹腔(ふくくう)鏡手術で、患者の死亡が相次いだことが問題となった。病院側の原因究明や再発防止への姿勢が厳しく問われるのはもちろんだが、事前に病院ごとの術後の生存率などの情報が公開されていれば、このような事態への発展は避けられたのではないだろうか

筆者が専門とする「医療経済学」は、まさにこうした課題に取り組んでいる。
 

経済学者は、「競争は良いことである。
質を向上させ、価格を引き下げる」と主張する。ただ、この主張にはいくつかの前提条件が必要なことは、あまり説明されない。
経済学が想定する「完全競争市場」においては、「完全情報」の前提が満たされる必要がある。
この完全情報とは、市場での取引相手(売り手と買い手)が、取引する財・サービスの価格や品質に関する情報をすべて保有していることを指す

ところが、医療サービスの場合には、売り手(医師・病院)と買い手(患者)では、大きな情報の偏りがあるのが実情だ。
 患者は病気や治療法についての専門知識を持たないばかりか、医師・病院の治療成績などに関する情報もない。
患者は医師に比して少ない情報の中で病院を選択し、自覚症状(痛みや発熱など)を訴えて適切な医療サービス(疾患名や治療方法)を推奨してもらう必要がある。
このような状態を「情報の非対称性」と呼び、市場の機能が十分に働かない「市場の失敗」を引き起こすことが知られている。

 ◇英米の「情報の生産」

 経済学ではこの市場の失敗への対抗策として、(1)政府が市場へ介入する「規制」、(2)売り手が行う「シグナリング」(属性などの情報発信)、(3)第三者が買い手に対し客観的な売り手の情報を提供する「情報の生産」──などが理論化されており、医療分野でも実際に取り組まれている。
 

1)の規制については、日本では医療法によって「広告規制」が行われ、病院は生存率などの治療成績を広告することができないようになっている。
これは、情報を持つ売り手(医師)が広告により、情報の少ない買い手(患者)を不適切に誘導し、健康水準の大幅な低下(時には死亡)が生じることを避けるためである。
ただし、患者にとっては広告規制により、入手できる情報が限定される問題が生じていると考えられる。
 

現状に対して病院側は、(2)の「シグナリング」を利用している。
これは、売り手が品質に関する情報(例えば生存率)の代わりに、分かりやすい属性(例えば大学が開設者)を信号(シグナル)として買い手に発信する行為を指す。
シグナルにより、医学知識に乏しい患者に、よい病院であると認識させることができる

しかし、このシグナルは医療サービスの品質との関係に疑いが生じれば信頼性が落ちることになる。
回も、「大学」病院というシグナルに反して、低い品質をうかがわせる問題が起きたため、その効果が大きく低下していると考えられる。
 
それでは、(3)の「情報の生産」により、第三者が病院を選択するための重要な「情報」を患者に提供し、適切に病院を選択できるように支援することはできないだろうか。

日本における情報の生産は試行錯誤の段階だが、米国や英国では先駆的に取り組まれている。
 


米ニューヨーク州政府は現在、州内の病院の心臓バイパス手術などの治療成績を、病院名および医師名ごとに公開している。

公開当初の1990年代には、特定の病院で極端に悪い治療成績が明らかになった。

また、英国では税財源で医療を提供する「国営医療制度」の傘下病院について、英保健省が治療成績を毎年公表している

さらに、新聞がこの結果を病院名入りで報道することも恒例行事になっている。ただ、この情報の生産には、乗り越えるべき課題がいくつかある。
 

第一に、情報の正確性とそれを支えるデータの利用可能性である。
例えば、英国では、税財源で入院患者全員をカバーするデータベースを構築し、当初は病院内での死亡数を利用していた。
しかし、病院側が患者の死亡前に意図的に退院を早めているとの疑惑が指摘され、自治体への死亡届のデータとひも付けて、退院後の死亡の状況も把握できるように改善している

このような継続的な改善に加え、データの信頼性を確保する監視制度(監査など)も必要になってくる。
 

第二に、情報の生産に必要な費用の調達と負担方法である。
信頼性の高いデータを継続的に収集し、制度の改善を続ける費用は、かなり高額になると考えられる。
しかし、データのような「情報財」は、安価で複製(コピー)が可能なため、その対価を利用者から得られにくい。
このため、英米では(地方)政府が公共財と同じように費用を租税などで負担する場合が多く、費用負担を巡って住民の合意と首長の政治的決断が必要となる。

第三に、情報を受け取る患者にも知識が必要な点である。いかに優秀な医師であっても、合併症のある複雑な症例では死亡率が高まる。
また、標本となる患者の観測には、ランダムな誤差が生じる。このため、英米では、患者の重症度を調整した「リスク調整生存率」の採用や、観測誤差を考慮した「信頼区間」などの統計処理を施したうえで、データを公開している。特に英国の場合には、住民が統計処理後のデータを理解しやすいように、ホームページ上で医療機関の評価の表現を色(緑、青、赤)やマークを用いて工夫している。
 

この情報生産により、日本と同じ民間病院が主体の米国では、当初に懸念されていたような病院の倒産や患者の移動はあまり起きなかった。

いくつかの研究によれば、病院側がすぐに高い死亡率の原因を究明し、責任者を更迭したり業務プロセスを改善したりしたことが主な要因である。結局、一番影響を受けたのは医師で、治療成績の低い医師は手術を取りやめたり州外へ異動したりした。

 ◇データ公表に及び腰

 実は日本でも、がん治療や研究にかかわる公立病院などが加盟する「全国がんセンター協議会」(全がん協)が過去3回(2007年、08年、12年)、主要28病院のがんの5年後生存率(診断から5年後に患者が生存している比率)を公表している。

しかし、統計処理をしていない「生」の数値が公表され、同時に情報を正確に理解するためとして多くの注釈が付けられた。
このため、患者にとっては解釈が困難なのが実情だ。また、5年後生存率の公表は研究事業の一環とされ、毎年公表される予定ではない。

 そもそも、英米での統計処理の方法は国内でも利用可能なので、政府や病院が患者からの評価に直結するデータの公表に及び腰なことが、根本的な違いであろう。
政府による情報の生産は、患者の情報が増加するのみならず、病院経営の透明性を高め、非価格(品質)競争を促す圧力も期待できるだろう


重篤な症状で治療を受ける際に、どの医療機関を選択するかは、誰にとっても難しい判断である。シグナリングに頼った日本の現状から、政府が主導して情報を生産する方向へ本腰を入れるべき時期ではないだろうか。
(河口洋行・成城大学経済学部教授)
………………………………………………………………………………………………………
 ■人物略歴
 ◇かわぐち・ひろゆき
 1965年山口県生まれ。89年一橋大学商学部卒。2002年英ヨーク大学大学院、08年一橋大学大学院修了(経済学博士)。日本興業銀行などを経て、11年から現職。専門は医療経済学。著書に『医療の経済学』(日本評論社)など。