(迫る2025ショック)9部・訪問看護師の力:8 在宅でかなった最期 /神奈川県

2015.02.23

(迫る2025ショック)9部・訪問看護師の力:8 在宅でかなった最期 /神奈川県
2015.02.19朝日新聞


 横浜市鶴見区医師会在宅部門の栗原美穂子さん(49)の歴史は、そのまま同訪問看護ステーションの歴史と言っていい。ステーションができた翌年の1996年に入った。19年かけステーションを三つに増やし、開業医にも在宅医療をするよう働きかけてきた。

 さらに医師会や病院、介護事業所などを巻き込み、地域医療・介護のシステムづくりを担った。ケアマネジャーの資格もとった。

 「医療と介護の両方に精通した栗原さんだからこそ、ここまでできた」と区医師会理事の渡辺雄幸医師(61)は認める。

 栗原さんが訪問看護師を目指した原点は、約25年前の病院時代の経験にある。末期の肺がんだった40代の女性を受け持った。

 「今、一番何をしたいですか?」と聞くと、「家に帰りたい」と言われた。酸素ボンベなどの医療機器をつけ、点滴をしていた。まだ「在宅医療」という言葉は一般的でなかった。栗原さんは、渋る主治医に「私が毎日様子を見に行くので、帰らせてあげてください」と頼み込んだ。

 許可が下り、夫と小学生から大学生の3人の子どもの元に帰すことができた。

 家に行くと、いつも煮物のいいにおいがした。母親が高校生の娘に、作り方を教えていた。その煮物を、おいしそうに食べていた。

 気がつくと1カ月がたっていた。自分の死期を悟った女性は、栗原さんの腕を握りながらお礼を言った。「家族一人ひとりと、お別れができた。もう思い残すことはないわ」。その日病院に戻り、亡くなった。

 家族が初七日を終え、病院にあいさつに来た。娘が言った。「お母さんと17年一緒にいたけど、この1カ月が、どれだけ濃い時間だったか……」。その娘は、後に看護師になった。

 栗原さんは「妻として、母としての役割を果たし旅立った。家って、やっぱりその人のいるべき場所なんだ」と実感した。同時に「訪問看護をやりたい」という思いが、こみ上げてきた。「今でも、このときの思いは忘れません」

 栗原さんを支える看護師の一人が、第2ステーション管理者の本多幸子さん(50)だ。2003年に訪問看護を始めたばかりのころは、疑問や戸惑いを感じていた。病院にいたときは、治療した効果が目に見えたが、訪問看護では数カ月たっても良くならない。

 一人の寝たきりの在宅患者との出会いが転機になった。地道な訪問リハビリや口腔(こうくう)ケアを続けて1年、ある日、はたと気づいた。「自分の看護がなければ、脱水や高熱で入院していただろう」。訪問看護の意味を実感した瞬間だった。

 こうした訪問看護師たちが日々奮闘してきた区医師会のステーションは、来月1日、20周年を迎える。