青木眞が聞く! 感染症診療のピットフォール

2014.06.25

青木眞が聞く! 感染症診療のピットフォール
 

第5回 青木眞氏×林 淑朗氏(亀田総合病院集中治療科)
2014/6/23 日経メディカル
 

 
 
感染症診療の次世代を担う医師たちが、現場でどのような課題に直面し、いかに克服したかを青木眞氏が掘り下げるこのコラム。
今回のお相手は、亀田総合病院の集中治療科部長を務める林淑朗氏です。集中治療室における感染症管理のあり方に疑問を持ち、その答えを求めて留学した林氏。海外に長く住んで初めて感じたことなども伺いました。(編集部)



 
Yoshiro Hayashi
亀田総合病院集中治療科部長●1998年群馬大卒。オーストラリア・クィーンズランド大臨床研究センターなどを経て、2013年1月から現職。

青木 林先生は、麻酔科医として集中治療に携わる中で、感染症に関して疑問を持たれた。
いろいろと勉強する中で、合理性のある世界があると分かったものの、国内では十分な知識が得られず、もっと勉強するチャンスを求めてオーストラリアに留学されて、花開いた方です。

林 私は麻酔科医から集中治療の道に入りました。
日本では一般的なパスウェイです。
しかし、集中治療の体系的トレーニングというのは当時ありませんでしたから、どうしても麻酔の専門知識をベースに集中治療を見ることになります。

 ですから、気道確保、人工呼吸、血管作動薬の使い方、輸液蘇生、針刺しものとかは得意だったと思うのですが、内科的知識はかなり不十分だったと思います。

特に感染症というのは、麻酔科医にとって無縁の世界でした。

 私が十数年前に集中治療を始めようとした時は、白血球とCRP、熱だけを頼りに治療していました。

さらに感染症の専門家も身の回りにいませんでした。

しかし、ICU(集中治療室)の患者の半分程度が感染症の問題を抱え、7割以上の患者がICUで何らかの抗菌薬治療を受けているのです。

高度な医療機器を駆使しても、感染症にいとも簡単に敗北する経験が多く、とても残念に思っていました。



ICUにおける感染症管理に不全感


青木 ICUで重要な疾患である感染症に対して、本来あるべきマネジメントが十分に行えていないのではないかと、不全感を持つようになったということですね。
その感覚は、海外の状況との比較として生まれたのですか?

林 そうじゃないです。私は当時、海外とのコネクションは全くありませんでした。

青木 ご自身の価値観から生まれたわけですね。

林 というか、リーズナブルでないものを受け入れられなかったのだと思います。
まだ若かったから、「リーズナブルでない」という感覚を持っていられたのだとも思います。

青木 僕は、そこのところが先生をユニークにしていると思いますね。
熱やCRPや白血球に踊らされるような感染症診療に健全な不全感を抱けるICUの医師は少ないでしょう。

林 そうかもしれません。当時、どこに行っても独りの戦いでした。

青木 なぜ先生は、健全な不全感を抱けたのでしょうかね。

林 それは私が子どもの頃から持っていたものです。
私は小さい時から、自分が納得できない状況では前に進めませんでした。そんな不器用な人間だったのです。

青木 それは、別の見方をすると、大勢に従うとか、教授の意向を汲むとかよりも、患者のアウトカムそのものが非常に大事に思えるということですよね。

つまり、さっき言ったCRPで動いていることが本当に患者のためなのかと思える視点を、先生は持っていたんじゃないですか。

 この対談に来ていただく先生方は、バックグラウンドの違いはあっても、基本的な立ち位置は、皆、患者第一主義です。

林 青木先生の本に偶然出会ったのもちょうどその頃でした。
自分が疑問に思っていることは本来妥当な疑問であり、押さえ込む必要はないと背中を押してもらえる内容でした。
さらに、集中治療領域のみならず、日本の感染症診療の常識自体を強く疑うようになりました。

青木 先生の目は外の世界に向き出したのですね。

林 自分がほしいものが日本にないのであれば、日本から出なければならないと思いました。

多くの人が留学しており、留学することでほしい情報が得やすくなっているということだったので、米国留学のチャンスを探しました。

 そんな中で知人に、ピッツバーグ大学のDavid L.Paterson教授を紹介されました。

自分の思っていることを話すと、「来年からポスドクとして雇ってもいいよ」と言われ、話がまとまりました。ただ、その直後、Paterson教授が彼の母校であるオーストラリアのクィーンズランド大学にヘッドハンティングされたため、急遽、私の行き先もオーストラリアのブリスベンとなりました。

青木 感染症の大御所に果敢にアプローチして、OKをもらったわけですね。

林 最初はクィーンズランド大学にリサーチフェローとして採用され、ICUにおける抗菌薬使用ポリシーや重症患者における抗菌薬の薬物動態などを研究しました。

 同時に現地での医師登録にも成功したので、集中治療の臨床にも関わりたいと思いました。
勤めていた大学のキャンパス内にある州立病院集中治療科のボスに、クリニカルフェローとして雇ってもらえないかと直談判したんです。

 最初は冷たくあしらわれたんですけど、2回、3回と頼みに行くうちに、「面倒くさい、分かった」みたいな感じで、採用してもらいました(笑)。

青木 先生は簡単にあきらめない人のようですね



 
 

 




    



帰る場所はないつもりで留学


 
Makoto Aoki
感染症コンサルタント●1979年弘前大卒。沖縄県立中部病院内科、米ケンタッキー大感染症内科、聖路加国際病院感染症科などを経て、2000 年より現職。『レジデントのための感染症診療マニュアル』(医学書院)など著書多数。米国感染症専門医。

林 ただ、行くときは大変でした。

青木 周囲の人々に止められたのですか。

林 家族はあまり望んでいませんでした。当時、卒後11年目になろうとしていましたので、安定路線を行けば、定住する場所を決めて、そろそろ家を買っていた時期だと思いますし。

青木 先生はそういうのに全然引かれないでしょう。

林 はい(笑)。ただその時、子どもが2人(3歳と6歳)いまして、妻を含めて3人の家族を連れて、海外に引っ越すというのは大変でした。収入も最初は3分の1以下になりましたし。残っていれば、経済的にはすごく安定しているわけで。

 とはいえ、社会的な安定感とは裏腹に、自分の中の閉塞感は危機的な状況でした。

青木 留学する連中はだいたいそうですね。奥さんとか子どもが大変。

林 当時、所属していた医局からは、「行くのは自由だけど、帰ってきたときのことは分からないよ」と言われました。少し厳しい言われ方でしたが、そう言ってもらえたので、退路を断つ決心ができ、それがハングリー精神につながりました。

青木 先生みたいに誰もやったことがないことをやっていく人たちって、帰ってきてからどうなるかとは考えませんね。ともかくやりたいことにこだわるから、ここへ行くしかないみたいな感じになって、行ってしまいますね。

林 それが、必ず結果を残さないといけないというプレッシャーとなり、前進するための原動力になったと思います。

青木 結果を残すように自分自身に強いていく。それも必要なことでしょうね。

林 どうなるか分からないという不安もありましたが、留学中は、私のやりたいと思うことを上司が全力でサポートしてくれました。

 最初は、なぜそこまで支援してくれるのかと不思議だったのですが、自分の部下をどれだけ引き上げたかがボスの業績につながるので、あちらの世界では普通のことだったようです。

青木 それは米国も同じだと思いますね。努力したい、何かしたいという人には、サポートを惜しまない文化がありますね。逆に、ずるい人、怠けている人には非常に厳しいですが。



亀田総合病院からのオファーで帰国を決意


青木 そして、オーストラリアでいい仕事をたくさんして、亀田総合病院に戻られました。どうして亀田を選んだのですか。

林 最初、亀田の経営者の方から「新しいICUをつくったから見に来てほしい」と連絡をもらいました。ICUを見に行ったところで、「急性期病院は集中治療科がないと成り立たないので、集中治療科という診療科を立ち上げたいと思っている」という話を伺い、さらに、「理想とする集中治療科をつくってほしい。部下は先生が必要と思う数だけ採用していい」と言われました。

青木 おー。なかなかそこまで言ってもらうことはないですよね。

林 実は、亀田の前にも集中治療室の責任者になってくれないかという話は幾つかありました。けれども、どこも一人部長的な話が多かったので、お断りしていました。

青木 社長兼雑用係みたいな役職ということですね(笑)。

林 亀田から話をもらった頃、私の方も日本に帰れるチャンスがあれば、帰国を考えようと思っていた時期でした。

 オーストラリアでの生活も5年目で、長男は小学校6年生になっていました。そろそろ、言語や教育の観点から、日本に帰るのか、オーストラリアに永住するのかを決定した方がよい時期でした。また、正直な話、オーストラリアの食べ物や文化が私には合わないということも、結構深刻な問題でした。

青木 頑張っていい仕事をしていたら、日本に帰れる場所はあるものです。他方、子どもの言語をどっちにするかとか、就学も考える必要がありますね。

林 5年間海外に住んでみて、日本人にとって食生活というのは大切なのだなと痛感しました(笑)。

青木 帰国後はどうでしたか。周囲に受け入れてもらえないということはありませんか。

林 見解の相違はいろいろな診療科とたびたび起こりますが、ICUという中央部門で働く限り、それが日常と受け入れなければならないと思っています。現在は、管理職としての立場をわきまえているつもりです。また、亀田の経営者や関係する各診療科の責任者からは、いつも十分なサポートをしてもらっています。

 経営者からは、ICUが様々な意味において機能することを求められていると理解しています。他の専門家とのコンフリクトに対する冷静かつ現実的な対処も、私がオーストラリア留学で学んだ専門家の持つべき能力の一つです。

 昔みたいに、納得いかないからといって喧嘩っ早くやるわけにもいかないですし(笑)。


(2014年3月21日、横浜市にて収録