福島で足りないもの 南相場市立総合病院・・・

2012.07.16


福島で足りないもの 

南相馬市立総合病院 神経内科  
小鷹 昌明 

2012年7月13日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行  http://medg.jp 
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何度も伝えてきたように、私は偶然の積み重ねでここへ来た。大学を辞めようと考えていた矢先に、東日本大震災が起こり、一身上に不運が生じたときに、自分をこの地へと導く人が現れた。ある意味、“運命の糸”に操られて来てしまったようなものである。 
ただ、私は震災を現地で体感したわけではないし、津波の脅威も経験していない。原子力発電所の爆発の驚怖など知る由もないし、放射線の降り注ぐ中で避難誘導を行ったわけでもない。それらはすべて、聞き伝えであり、映像であり、空想である。 
なんだかんだ言っても、誰がどう説明したとしても、私にとっての震災は、非当事者であったし、遠い出来事だったし、他人事だった。 
少なくとも、ここに来るまでは。 

ここで私は常勤医として、“神経内科”という難病患者を診るような診療科を立ち上げたわけだが、あっと言う間にひとつの壁にぶつかった。 
それは、介護・福祉職員の圧倒的不足からくる、ケア施設の絶対的欠乏であった。 
そうした現象は全国的なことで、高齢化の進む地方ではどこも同じかもしれないが、それにしても、とにかくもう、本当に足りなかった。いかなる患者であろうと、入院治療の終了した人は自宅に返す以外に選択肢はほとんどなく、リハビリのできる転院先を探そうとするならば、県外は当たり前であった。 
福祉や介護の中心的担い手であった若手から中年の、特に女性層の抜けた街の実態を思い知らされた。 
住人にとってここで暮らすということは、「そうした現実を理解し、限られた条件に合わせた生活スタイルへの転換を強要される」ことであり、つまり、「障害者に対する福祉サービスの決定的資源不足」が、私が被災地診療から突き付けられた最初の課題であった。

6月末という時期外れに、病棟の送別会があった。女性看護師が、また2人離職するためだ。 
両者とも止むに止まれぬ事情であった。ひとりは父親と夫とが病気で倒れ、その看病のため、もうひとりは、避難して独り暮らしを続ける子供のもとに移るためである。けっして「辞めないでくれ」とは言えないし、また、言うべきでもなかった。 
仮設や借上げ住宅から何とか通勤し続けている職員たちも、明日どうなるか分からない。 
職業的プロ意識はあるものの、医療者は皆、親であり、子であり、家族の一員であり、そして介護人であった。それが、次に私に課せられた“人は生活者である”という当たり前の前提であった。 

2回程度診察した“かかりつけ患者”が、「風邪をひいたので、だるくてやる気がない」と訴えて、時間外に来院した。多発性硬化症だが、安定している30歳台の女性であった。 
「熱はないし、咳や痰も出ないのだから風邪ではない。意欲がないのはあなたのメンタル的なもので、心配事が多いからではないのか。大変なのは分かるけど・・・」と診察結果を説明した。 
「先生は、わざわざこの土地に来てくださり、私たちの立場を理解してくれようとしていますが、土地を奪われ、家を奪われた、現実の、このどうしようもない状況に対しては、何ができるわけでもない」と、回答された。 
そのようなことを言われたものだから、「私だって、いくら偶然とはいえ、苦労して、身を投じる覚悟でここに来ているのだからお互い様だ」と瞬間的に、不遜にもそう思った。 

赴任後しばらくの間、私は、「これから、この街をどうしていきたいのかを決めるのは地元の人たちで、障害者や被災者をどう扱っていくかは、市や県で考えることだ」などということを言っていた。 
「実態の分からない、理解しきれないこの地で私たちにできることは、せいぜいそれを支持してあげることぐらいだ」と語っていた。
離職する看護師の夫は末期癌であった。そして、多発性硬化症の患者の母親は、震災後に自ら命を絶っていた。 
私の想像を遙かに凌駕する凄まじい、あまりにも壮絶な現実があった。苦悩を表に出さない態度の一方で、自暴自棄や抑うつ状態を理解して余りある圧倒的惨劇が、この地には横たわっていた。 
私は想いを修正せざるを得なかった。不運に直面する人たちを前に、他人任せで悠長なことを言っていられるのか。この地で起こり得る心身の衰弱に対して、どう反応していけばいいのか。 

既に何度も何度も、繰り返し繰り返し自問してきたことだが、私はなぜ大学を辞めてこの地を訪れたのか? 「この地でやりたいことが明確にあった」という理由では、けっしてない。 
1993年以来、駆け抜けてきた大学人生を一旦リセットしたくなったからではないのか。ただ、がむしゃらに仕事をしてきて、気がつくとひどくつまらない人間になっていた自分を変えたくなったからではないのか。無意味な権力闘争や、不条理な人物査定など、自分の巻き込まれていた喧噪から抜け出したくなったからではないのか。 
それは、とどのつまり、現状からの“逃避”ではないのか。その結果が、たまたまこの地であっただけではないのか。 
私のそうした独り善がりな行動と、被災地現場から離れていこうとする人や、現状を打破できない人の態度と、何が違うのか。同じではないのか。私ごときに被災地の何を語れるというのか。 

ここに来るまでの間、私は震災に関連する書籍を何冊も読んできた。ドキュメントも読んだ。 
それらは、切実な現場を捉えていたし、こんな私でも、多少の援助ができるのではないかと思っていた。だから、ある程度の覚悟はしていたし、多少の理解もしているつもりでいた。 
しかし、ここへ来てからは、そのような書籍を最後まで読み終わるということがなくなってしまった。それどころか、どの本も序章あたりで読む気がしなくなり、そういうことが何冊か続いたために、今ではまったく読まなくなった。 
本来なら、より関心を抱いて、加速度的に読み進めたくなると思っていたのだが、現地に慣れれば慣れるほど、入り込めば入り込むほど、読解できなくなっていた。 
一体なぜか? 書いてあることが、何か現実離れしているような気がしてきたからである。 
震災を語る人たちの言説が、少しずつ現場とずれてきている。“提言”もいい、それに対する“対策”も正しい。でも何かが違う。 
それはきっと、現地の人、一人ひとりに対する目線を感じないからである。私が当初したような“見誤り”を、多くの人がし始めているからで、彼らの心情を理解した“つもり”になって、一絡げに何かをした“つもり”になっているからではないのか。 

翌週、多発性硬化症の患者が、再び来院した。 
「先週は先生だからと思って、これまで言えなかったことを言ってしまいました。でも、言えて良かったし、自分でも、そろそろしっかりしなければならないと思っています。少しずつ自分を元に戻していきます」と話された。 
私は、嬉しかった。喜ばしくて、頼もしくて、なぜか、ありがたかった。 
正解や解答などない。現地でできることは“絆”などという曖昧な運動ではなかった。“団結”などという単純な行動でもなかった。要は、深い深い洞察から“独りにさせない”という、具体的な触れ合いだけであった。 

仮設住まいの人たちに、私は、「他の土地から来た人間が、この地でできることは何ですか? して欲しいことは何ですか?」と尋ねた。何人にも尋ねた。 
意外にも、彼らは明確な回答を示してはくれなかった。「先生だから市立病院さ、守ってもらうしがねぇ。来てくれたことだけでいいでねぇがい。たまに、こうして一緒に酒でも飲むっぺ」 
彼らは分かっているのである。「本当のところで、よそ者にできることなど、所詮ない」ということを。 
「自分のやりたいことは何なのか? 自分のできることは何なのか?」という問いの立て方、そのものが間違っていた。 
「私のしたいことは何か」と問うていながら、知りたかったのは、「こんな自分でも何かができるはずだ」という自身への存在理由であった。 
私にできることは、この地で暮らし、この地で働き、この地の人たちと会話を重ねることであった。何かしたいけど、何もできないジレンマを感じ、それを秘めながら彼らと接することだけであった。 

土地や住居、暮らしや生活といったものについて、否が応でも考える時間が増えた。“人生”とはどういうことなのか、“生きていく”には何が必要なのかということを、日々考察するようになった。 
この地で生まれ、この地で育ったものにとっては、ここに住みたいと願うのは当然であろう。雨漏りを直しても、また台風はやってくる。建て付けを正しても、また地震は発生する。土砂が崩れ、地が裂け、河川が氾濫しても、そこで生きていく。 
親族が死んでも、それを乗り越える。そういうことを、日本人は1万年以上も繰り返してきたし、そうやって、この薄っぺらな土壌にしがみついてきた。 
人々は起きて働いて寝て、翌日も、またその繰り返しである。壊れれば直し、倒れれば起し、濡れれば乾かし、そうやってコツコツと生活というものを守り立て、維持してきた。 

人間はものすごく途方もないことを、実は続けてきた。しかし、そんなきれい事は、ここでは通じなかった。ここには、行き場を失いかけている障害者や、目標を見出せない被災者がまだまだいた。そして、それを支える資源は、あまりに脆弱であった。 
医師よりも看護師や介護士、そして、ソーシャルワーカーの不足が何より深刻だった。担い手がいなければ、福祉施設の建築も進まない。街に戻ろうにも家の確保が追い付かず、居を構えられない。多くの家庭にはお年寄りの要介護者がいて、まったく余裕がない。 
障害者や高齢者は増える。しかし、行き場がない。皆、個人の生活を保つのに精一杯で、コミュニティを築けない。 

大飯原発の“再稼働反対”を掲げて募った4万5千人は、いったい何を願っていたのだろう。こう言っては申し訳ないが、被爆地帯の現状を、どれくらいの人が理解していたのだろう。 
これらの人たちが南相馬市を訪れ、ごく一部の人でもいいから移住すれば、もっと情勢は変わるだろうに、自宅周囲の首相官邸に集合することに一体何の意味があるのか。 
福島をレポートするつもりが、今回もまた思想を語ってしまった。どうやら、私は福島の現実を伝える以上に、人間の心について書きたいのだ。それは心象風景である。 
世の中は、どうやら何かの一線を越えたようだ。福島が忘れ去られていく。しかし、ここに私たちがいる限り、私は、私の言葉でこの福島を、人の意思を編集し続けたいと思う。