肝炎根絶 夢へ前進/県内医療体制再編でも実績

2012.06.11

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ながさき人紀行・106/県病院企業団前企業長 矢野右人さん(75)/肝炎根絶 夢へ前進/県内医療体制再編でも実績 
2012.06.02長崎新聞 


 大村湾沿いの小高い丘に構える国立病院機構長崎医療センター。 
この近代的な建物の敷地に、木立に隠れて江戸時代の家屋があるのはあまり知られていない。 

「宣雨宣晴(ぎうぎせい)亭」。 
天然痘の撲滅に生涯をささげた大村藩医、長与俊達(ながよしゅんだつ)が建て、その孫で旧内務省初代衛生局長として近代医療制度の基礎を築いた長与専斎(せんさい)の生家でもある。 

この2人を「心の支えとしてきた」と語る矢野もまた、医療センターを拠点に肝炎根絶へ研究を重ね、近年は県の医療政策の責任者として病院改革を進めてきた。 
今や地位も名声も築き上げたが、その原点は福岡の町医者だった母キミ子だという。 

 キミ子は女性の高等教育が珍しかった戦前、帝国女子医学専門学校を卒業した。 
父敏夫との結婚を機にいったん家庭に入ったが、戦後、敏夫の仕事で渡っていた朝鮮から福岡に引き揚げ自宅で開業した。 
今と違い、深夜に患者が訪れると寝床から起き出して診察するのは当然で、矢野は医療と隣り合わせの生活を送るうち、子ども心に医師という仕事の尊さを感じ取っていた。 

 中学と高校では医師になろうと勉強に励んだわけではなく、部活の体操に夢中だった。高校に体操部はなかったので、同級生数人を誘って同好会をつくったが、矢野以外は1年もたたずにやめてしまった。 

それでも2年生になり新入生を5人ほど集め、学校にも部として認められた。「インターハイに行こう」を合言葉に連日暗くなるまで練習した。 
優秀な指導者がいる近隣の中学や高校にも出かけ指導を仰ぎ、3年生でインターハイ出場を果たした。 

 最初は独りでも仲間を増やしながら目標に向かってまい進する-。1966年、長崎大で医師のキャリアをスタートさせたときもそうだった。 

 当時、肝臓研究の主流は肝硬変やがんだった。その根源とされる肝炎は原因が不明でマイナー分野だったが、そこに目をつけた。同僚の若い医師を巻き込んで肝炎、肝硬変、がんと移行する患者のデータを経過表にまとめていった。 
この地道な作業がB型肝炎撲滅への第一歩だった。そして、そう時を置かずに追い風が吹いてきた。 

 60年代半ば、米国の医師が未知の抗原を発見。約5年後、それがB型肝炎ウイルスと判明したのだ。矢野はちょうどドイツに留学しており、現地の大学で肝炎ウイルスを測定する定量法の論文で博士号を取得、73年に帰国した。 
このとき、長崎医療センターの前身である大村病院院長の横内寛がその帰りを待っていた。

 長崎大で肝臓研究の“ボス”だった横内は69年、院長に就任。 
地方の一国立病院にすぎなかった大村病院を、大学病院に負けない医療機関にするのが夢だった。 
76年、全国初の肝疾患病棟(50床)を開設。矢野はそこで肝炎患者の治療と研究に没頭した。 

 当時、B型肝炎は「急性の25%は治らず慢性に移行する」というのが定説だった。 
だが矢野の研究では、思春期以降に輸血などでウイルス感染して急性肝炎になった場合、一過性で治るか劇症肝炎となり死亡するかのいずれかだった。 
つまりウイルス持続保持者(キャリア)となって、慢性肝炎、肝硬変、がんと移行するルートは見られなかった。 

 一方、感染性の強い特定のウイルスを保有する母親から生まれた乳児は、3カ月以内にほぼ全員がキャリアになった。ならば母子感染を防げばいい-。 
出生直後から1年間、継続的に抗体を投与した結果、予防に成功。「人生で最大級の研究成果」だった。 

 だが学会では肝臓の権威とされる医師たちから「人体実験だ」などと痛烈な批判を浴びた。 
まだ40代の若い研究者が権威に公然と否定されたのだから「研究をつぶしてしまった」と思い悩むほどショックは大きかった。 
ただ何人もの患者と向き合って得られた結果だという自負だけはあった。 
研究を支持する医師らと症例を積み重ねていった。 

 その後、旧厚生省の研究班の一員としてワクチン開発に成功。 
86年、公費による母子感染の予防接種が始まった。それから26年。 
「あと10年もすると出産できる年齢層のキャリアは激減し、新しいキャリアによる出産は原則なくなっていくだろう」と予測する。 

 矢野を中心とする研究チームはC型肝炎でも実績を挙げ、99年3月、国は長崎中央病院(大村病院が改称)を国内唯一の肝疾患高度専門医療施設に指定。 

矢野はその直後、院長になり、長与専斎の長男稱吉(しょうきち)が創始者である「日本消化器病学会」の総会会長、アジア太平洋肝臓学会会長などを務めた。 

 そんな医師としてのキャリアを上り詰めたころ、県知事の金子原二郎から声がかかった。
「県立病院を改革してほしい」。 
当時、全国の自治体病院はどこも慢性的な赤字体質に苦しんでいた。一度は断ったものの、定年で院長を退任した2002年、県庁の門をくぐった。 
専斎がそうだったように、医療全体の底上げには研究だけではなく、政策が重要と考えていた。 

 だが継続性を重んじる行政の世界は、未知の領域を切り開いてきた矢野にとって戸惑いの連続だった。県幹部の1人と毎日のように昼食をともにして庁内ルールを学んだ。 
一方で県立3病院と、県が地元市町と共同運営する離島9病院の改革に切り込んでいった。
一つは経営改善。 
高水準にあった給与の見直しや民間との機能のすみ分けなどを進め、一時約110億円あった累積欠損金を10年度に解消した。 

 もう一つは、ほかの公立病院を含めた県内医療体制の再編。 
医師不足や偏在で勤務医の労働環境が悪化していたため、医師や入院機能を地域の中核病院に集約して医療の質を確保、周辺の医療機関をバックアップさせる仕組みを構築する必要があった。 
しかし、通院や入院が不便になる住民の反発は大きかった。 
「質と利便性を両立できればベストだが、それが無理だからベターを選択するしかない。 
ちょっと不便になるけれど、質は確保しますよと。 
でもこれがなかなか理解されない」と苦笑する。 


 それでも具体的に将来像を示し、豊富な人脈を生かして次々と再編をまとめていった。 
研究とは全く異なる分野だったが、「いくつもの選択肢の中から方針を決め、論理的に筋道を立てて結果を追求するのは、研究も政策立案も同じ」と言う。 

 大学時代はヨット部に所属。数々の大会で入賞し、国体にも出場した。 
「人生もヨットのように無風状態のときが最も怖い。潮でどこに流されるか分からないからね。逆風でもいいから風は必要なんだ。風さえあれば遠回りをしてでも進んでいけるよ」 

(堂下康一) 

◎プロフィール 

 やの・みちたみ 1936(昭和11)年12月3日、京城(現ソウル)生まれ。福岡の百道中、修猷館高を経て、長崎大医学部卒業。70年からのドイツ留学では当時最先端の腹腔(ふくくう)鏡システムを習得し、国内に初めて導入。84年、国立長崎中央病院臨床研究部長に就任し、副院長、院長を歴任。この間、世界保健機関(WHO)の肝炎協力センター長として中国を中心にアジア各国で、国際協力事業団(JICA)アフリカ感染症対策委員としてケニアで、それぞれ肝炎対策に尽力。県では病院管理監、病院事業管理者の後、2009年から県病院企業団企業長。今年3月退任し、現在は顧問。ほかに、国立病院機構長崎医療センター名誉院長、全国病院事業管理者協議会名誉会長、長崎大経営委員。