事業仕分けの仕掛け人 現場の風を官に吹かせた・・・加藤秀樹 行政刷新会議事務局長



2010.5.1-8 週刊東洋経済 トップの肖像 
加藤秀樹 行政刷新会議事務局長 
事業仕分けの仕掛け人 
現場の風を官に吹かせた 

国民の7割が支持した事業仕分け。第1弾に続き、第2弾の舞台づくりを主導するのは、一貫して行政改革を叫び続ける元官僚だ。政治とは、官と民の役割とは。あるべき姿にこだわり続けた人生。 

4月23日、事業仕分けの第2弾が始まった。支持率が急降下する鳩山内閣にあって、ほとんど唯一、国民的な喝采を博しているのが事業仕分けだ。 
第1弾では、蓮舫参院議員ら仕分け人が鋭く官僚に迫る姿が繰り返しテレビで放映され、事業仕分けという言葉自体、流行語大賞にもノミネートされた。すっかり劇場化した事業仕分けだが、派手派手しい「仕分け人」の背後に「仕掛け人」がいる。 
 国レベルの事業仕分けを構想し、シナリオを書き、演出した仕掛け人の名は加藤秀樹。行政刷新会議の事務局長である。一見、クールでドライな加藤は言葉少ない。とりわけ自分自身のことはほとんど語らない。劇場型の正反対、静かな男である。 
 「頼むなら彼しかいなかった」 
 鳩山内閣の松井孝治官房副長官の意中の人物が加藤だった。 
 出会いは13年前にさかのぼる。当時、加藤は大蔵省(現財務省)を辞めて、民間の政策シンクタンク「構想日本」を立ち上げたばかり。千代田区平河町にあるビルの一室、構想日本の事務所で2人は初対面した。橋本内閣の行政改革会議事務局の一員として働き、官僚組織の内側からの行革に限界を感じていた松井はたちどころに「意気投合した」。 
 それから13年後、政界に転出した松井は「財源捻出の知恵袋に、加藤の力を借りましょう」と平野博文役員室担当(当時・現官房長官)に訴えた。財源捻出の有力な手段の一つが、事業仕分けである。政権発足後、松井自身は官房副長官として事務作業から離れ、代わりに加藤が事業仕分けの舞台づくりを主導した。 
 松井が振り返る。「官の世界に民の知恵を引き入れ、民の常識で税金のおかしな使われ方をあぶり出した。加藤さんの広大なネットワークがなかったら、できなかった」。 

周りの空気で公務員受験ネットワークの組織者 

 「政治家でも官僚でもない」立場から政策実現を図ろう。1996年、加藤は46歳で大蔵省を離れ、構想日本を旗揚げした。2006年には東京財団会長に就任。一貫して政策提言に携わってきたが、加藤の活動領域はそこにとどまらない。 
 民主党や自民党の政治家を集めた「塾」を定期的に主催する一方、地元の香川県では古民家を集めた野外博物館「四国民家博物館」(四国村)の理事長を務め、田舎の魅力を再発見するプロジェクトにも携わる。 
 幅広い活動に通底するのは、加藤本人によれば、「人の幸せとは何か」「それを実現する世の中、国の形とは」という思いだ。青臭いとも言われかねない純な思い。エリート官僚という出自と、どう結び付くのか。 
 一つは、大蔵省を退職して見えた社会の広さだ。大蔵省時代は最優秀とされる金融マンにも、ほとんど会えた。「それだけで社会全体がわかった気になる。が、大蔵省を辞めたら、それがいかに狭い世界だったかと実感した」。世の中には、肩書も学歴もなくても立派な人、教養のある人がたくさんいる。多種多様な人々がそれぞれ一生懸命生きている。「幸せ」は「お上」が考える一律なものではない。「そこから幸せとは何か、そのために政治や行政はどうあるべきか、いろんなことを考えた」。 
 もう一つは、父親の存在である。父達雄は家業である運送業の経営者だったが、50歳を過ぎて古民家の野外博物館「四国村」を開設した。もともと高齢従業員の第二の職場として、うどん屋を開業するつもりで古民家を物色したが、その過程で古民家が次々と潰されている実態を知り、保存活動に乗り出したという。 
 従業員の「幸せ」を思った父がたどり着いたのが、民家の「仕分け」だったといえる。「父は長い目で見て、何を残すべきか、何を捨てるべきかを考えた。われわれ一人ひとりが世の中に本当にいるもの、いらないものは何かを考えなければ」。 
 だが、加藤は当初から行政や政治に関心が高かったわけではない。 
 1950年、香川県高松市に生まれた加藤は、祖父が国会議員だったこともあり、幼い頃から選挙は身近にあったが、69年に京都大学経済学部に入学しても、「公務員になることを考えたことはなかった」。 
 ちょうど加藤の入学年次は東大紛争の影響で東大入試が中止になった。東大を出て役人になろうとしていた受験生が京大に押し寄せた結果、公務員志願者が急増。「その気はまったくなかったが、みんなが受けるなら受けてみようかと」。 
 結果、合格して73年に大蔵省に入省。同期は17人だった。しかし、役人生活にはずっと窮屈さを感じていた。加藤の知人が胸の内を推し量って言う。「大蔵省に満足できなかったのだと思う。今も昔も、大蔵の主流は主計畑。傍流の彼には省内の展望が見えなかった。が、脇にいたからこそ、大蔵省を客観化し、主流の主計に見えないものが見えた」。 
 通常、志を抱く脱藩官僚が選ぶのは、政治家への道だが、「政治家は次の選挙に勝つことにほとんどすべての時間、エネルギーを使わざるをえない。その結果、政治の中身がおろそかになる」。 
 加藤はシンクタンクの立ち上げを構想した。役所の制約から離れ、自由な発想で政策の実現を図る「政策ベンチャー」。新組織設立へともに動いたのが、現・文部科学副大臣で、当時通産省の役人だった鈴木寛である。運輸省の官僚からマッキンゼーのコンサルタントに転じた上山信一(現慶應大学教授)はその頃、鈴木から加藤を紹介された。 
 「彼が面白いのは、組織も理念もやろうと思えば、自分一人で作れるのに、議論しながら作るところ。みんなに相談していた」。単騎独行ではなく、ネットワーク志向だった。 
 当時、シンクタンク設立の議論に参加したメンバーは、加藤、鈴木、上山に加え、朝日新聞記者の山田厚史、政策研究大学院大学教授の飯尾潤など。朝日新聞の山田にとっても、加藤の発想は新鮮だった。 
 「あれは、霞が関だけが偉いのではないという一つのムーブメントだった」と山田は言う。「公は官の独占物ではないよ、と。今でいう『新しい公共』の先駆けだったと思う」。
 日本では、税金を使って行政がやるのが「公共」だった。しかし本来、公=官ではない。教育、医療、福祉などの公の領域を官が全国一律に律するから、無駄が出る。公をできるだけ民の手で担えば、多様性が生まれ地域も活性化する。加藤のこの理念が、後の事業仕分けの苗床になった。 

静かな男の熱さ 官僚へのインパクト 

 加藤の志で、97年、構想日本はスタートした。実現に向け、静かな男の熱い一面が明らかになった。 
 シンクタンク設立には、まずスポンサー探しである。従来のシンクタンクは、特定の企業や役所の委託を受けるヒモつきシンクタンクがほとんど。しかし加藤は、あくまで独立した立場で政策提言し、実現に結び付けるために、趣旨に賛同した企業や個人の会費で賄おうとした。 
 山田が振り返る。「加藤は財界人を回って資金を集めてきた。年配の人をうまく取り込む力があった」。とかく頭が高いと言われる大蔵官僚だが、加藤は頓着せず走り回った。 
 そして、もう一つの熱さ。目指したのは、単に政策提言だけのシンクタンクではなく、法律改正など具体的な成果に結び付ける実戦部隊である。 
 構想日本が提言や働きかけをして、法律改正など実現に至った事例はこれまでに20件ほど。その初期の例として省庁設置法の見直しと公益法人制度改革がある。省庁設置法とは、官庁の活動や事業の根拠になっている法律。一般にはなじみが薄いが、同法が存在することで役所には幅広い裁量権限が与えられており、加藤によれば「大きな政府」の温床となっていた。官と民の役割を見直すには、まず設置法を改正し、権限規定を取り払わなければならないと考えた。 
 しかし、加藤も構想日本も当時の知名度はゼロ。モデル法案を作り、大枚をはたいてホテルで発表会見を開いたが、やってきた新聞社は1~2社程度。思い知らされた。「いくらいい政策を作っても注目されない。メディアというのは、政策の中身には関心がないのか」。
 が、あきらめなかった。猛烈なキャンペーンを開始する。メディアや有力議員への説明に奔走し、衆議院の行政改革特別委員会で参考人として意見を述べた。構想日本スタッフによれば、「あらゆる階層のオピニオンリーダーのもとに出向き、説明し続け、理解を求めた」と言う。 
 やがてPR作戦が奏功し、主要全国紙すべてが社説で設置法の問題を掲載。98年7月、中央省庁改革基本法の付帯決議に制度の抜本的見直しが盛り込まれ、99年、省庁再編の際、各省の新設置法からは権限規定が削除された。加藤とともに設置法見直しに奔走した飯尾は「役所の権限規定という問題を世の中に知らしめたことが大きかった。企業にも不透明な行政指導の問題点を理解してもらうきっかけになった」と振り返る。 
 公益法人制度の改革実現には9年かかった。公的サービスの官に替わる民の担い手として登場したNPO。その多くが法人格を持たず、活動が制約されていた。そこで構想日本発足と同時にNPO法案を発表。さらには公益法人についても、民法改正と寄付税制の大幅緩和を提言。その後、機会をとらえては国会の決議や閣議決定に盛り込まれるよう働きかけを続け、06年の公益法人制度改革関連法3法成立の下地を作った。 
 こうした目に見える実績以外にも、構想日本には大きな戦果がある。上山の言う「官僚に与えた影響」である。「当時、設置法などという役所の根幹にかかわることを言い出す人はほかにいなかった。構想日本のプロジェクトの下に、表には出られない官僚が集まった。役所にいても別の立場からやりたいことができる。そういう加藤の姿に感化されて、役所を辞めた官僚は多い」。 
 松井官房副長官も当時、構想日本に出入りしていた一人だった。「みんな個人の資格で参加して、純粋に政策についての議論をする。ノンパルチザンで議論をする場は構想日本が先駆け。一人ひとりの世の中を変えたいという熱意を、加藤さんがうまくコーディネートしていた」。 

官と民の役割分担 壮大な思考作業 

 戦果をつくった加藤が、行政に「現場」の視点を吹き込んだのが、事業仕分けである。 
 「行政改革、地方分権の議論をいくらしても改革は遅々として進まない。いっそ自治体の予算を一つひとつ洗い出して、必要かそうでないかを見ていったほうが早いのでは」 
舞台は構想日本が00年から12県の知事と取り組んでいた「国と地方の税制を考える会」だった。同会には岩手県の増田寛也知事、宮城県の浅野史郎知事(ともに当時)などいわゆる改革派知事が参加。その一環として02年、岐阜県で初めて事業仕分けを実施した。予算項目ごとに行政サービスの必要性を議論し、必要か不要か、国、都道府県、市区町村、民間のどこが実施すべきかを判定したのだ。 
事業仕分けで加藤がこだわったのは、「外の視点」と「公開性」である。当事者だけの議論では、従来の考え方の枠を破れない。他の自治体職員や企業人など現場を熟知した人に仕分け人として議論に加わるように依頼し、地域住民にも傍聴席を用意した。 
 その後、事業仕分けは市役所を中心に全国で40以上の自治体に広がっていく。途中で試行錯誤も重ねた。たとえば最初の2年間は自治体の全事業が対象で、6000もの事業を数分ずつで評価したこともあった。 
 「これで全体像はつかめるが、1個ずつ丁寧に議論できたわけではない。その後、100個くらいに限定すると、問題点がより明確に見えてきた」 
 自治体の仕分けをやればやるほど、国の地方に対するコントロールの弊害も見えてきた。国からの補助金をもらおうと思うと、国の指示に従わざるをえない。現場を知らない中央省庁が押し付ける事業ほど無駄が多い。地方もそこに甘えている。「念頭にあったのは最初から国」と加藤が言うように、どうやって国に切り込むかが次の課題だった。 
 そうした中、08年に自民党「無駄遣い撲滅プロジェクトチーム」の河野太郎チームが、文科省などを対象に事業仕分けを実施。そして09年秋、政権交代を機に、鳩山政権が国の事業仕分けの実施を決めた。その現場監督としての行政刷新会議の事務局長に抜擢された。
 前滋賀県高島市長で、国の事業仕分けに仕分け人として参加した海東英和は「政権交代直後のたった2カ月間であれだけ準備できたのは、構想日本が地方自治体で積み重ねてきた蓄積があったから」と語る。 
 実際、構想日本が試行錯誤した結果、編み出したノウハウは随所に効果を発揮した。たとえば「事業シート」。各省の予算書を見ても何もわからない。それを誰が見ても、事業内容がわかるよう、すべての事業をそのシートに書き込ませた。また仕分け本番の準備として、仕分け人は教育や医療機関など税金が実際に使われている現場に足を運び、ヒアリングを実施。その内容を共有した。「現場の状況を把握できてこそ議論で切り込める」。 
 国の事業仕分けでは、構想日本がチームを組んできたネットワークもフル稼働した。仕分け人にはこれまでに関係を築いてきた自治体職員が多く参加。加藤はよく「地方は末端ではなく先端」と口にするが、まさに行政の先端で見てきた無駄を、自治体の仕分け人は鋭く指摘した。 
 一方、「事業仕分けは乱暴すぎる」との指摘も相次いだ。象徴的だったのが科学技術関係の予算だ。ノーベル賞受賞者がそろって会見を開き、「見識を欠く」などと批判し、「科学技術創造立国とは逆の方向を向いたもの」とする声明も発表した。 
 加藤は一笑に付す。「誰一人として(仕分け人は)科学技術を否定していない。そういうことを見も聞きも知りもせず、『非見識』というのは、それこそ非科学的でしょう」。 
 加藤によれば、事業仕分けの議論に政策判断は基本的に入らない。「事業仕分けはその政策がいいか悪いかの判断をする場所じゃない。すでに行われた政策判断の下、執行されたおカネが目的どおりに有効に使われたかを議論する場所だ」。 
 行政を現場から見ていくことで、背後にある制度や組織の問題点、政策の良しあしが浮かび上がってくる。役所の膨大な予算書を読んでも行政の実態、組織や制度はわかりにくいが、現場でのヒアリングをベースに公開の場で一事業ずつ見ていけば、議論も深まるし、一般の人が聞いてもわかりやすい。 
 「役所の事業を丸ごと引っ繰り返して、こんな問題があると言ったら、みんな放っておけなくなる」。事業仕分けは、「官と民の役割分担」の壮大な思考作業の場である。 

文化再発見にも編集力 次は「民」の仕分け 

 ただし、独りでは引っ繰り返せない。構想日本がそうだったように、加藤の武器は、ネットワークだ。自治体職員、商社マン、大学教授、そして、現役官僚の隠れファン。 
 人を集め、つなぐコーディネーターとしての加藤のもう一つの顔は、面倒見のいい人情家の顔である。松井が通産省を辞めて政治家を志そうと決めたとき、加藤はその場で餞別を差し出し、二つ返事で推薦人になってくれた。「ベタベタしない都会的な人だけど、腹をくくって後輩の面倒を見てくれる」と松井は語る。 
 そんな加藤だから、政策提言以外の活動も全力投球だ。 
 加藤は05年、俳人の黛まどかが呼びかけ人である「日本再発見塾」の運営に慶應大学の学生らと共に携わるようになった。日本文化の原点である田舎の魅力を見つめ直そうと、泊りがけで職人らの話を聞き、地元文化を追体験する参加型セミナーだ。加藤にとっては「言葉や文化のルーツがある田舎を訪ね、われわれにとっているものいらないものを考える」場所である。 
 ここでも、実行委員会や事務局の立ち上げなど持ち前のコーディネーターカを発揮した。黛にとって加藤は「編集力に優れた人」に映る。 
 「地方で感じたことを、今の時代に当てはめて、どういう現象として起こっているのか、情報を編集してその背景を説明してくれる。話を聞いていると目からうろこが落ちる」 
 加藤は"考える場"を政治家向けにも組織している。3カ月に1回、10人ほどの勉強会「幹塾」がそれ。大臣経験者も参加している。 
 加藤によれば、政治家は本来、「人の幸せとは何か」を堂々と語らなければならない。その幸せを実現するために、世の中の仕組み、その仕組みを動かす部品である政策はどうあるべきかを考える。だが、「部品である政策ばかりを議論しても世の中はよくならない」。 
 目先の政策ではなく、「もっと基本的な、人の幸せとは何か、それを実現できる国のあり方を考える場」が、幹塾の位置づけである。 
 目下、進行中の事業仕分け第2弾も、原点に据えるのは同じ視点。運営費などに国家予算が流れ込む独立行政法人、公益法人にメスを入れる。「独法、公益法人ともに事業仕分けの重要な要素である現場目線で、公開でやる。また、そういう手法を(恒常的な)仕組みとして行政に定着させたい」。 
 事業仕分けをきっかけに、民間でも「うちの会社でも事業仕分けをやったら」という声が上がっている。加藤は代表を務める東京財団でも、すでに議論している。「会社のあり方、個人の働き方、コーポレートガバナンス、金融機関の役割など民間の活動はどうあるべきか」。 
 加藤の眼の前には、次から次、新しい"舞台"がせり上がってくるようである。