医師・村上智彦の闘い 夕張希望のまちづくりへ

医師・村上智彦の闘い 夕張希望のまちづくりへ

著者 川本敏郎

第二章 発端  経営診断

事の発端は、伊関友伸が村上智彦とはじめて会った日から一ヵ月半ほど前の、平成十八年(二〇〇六)八月十一日に遡る。その日、伊関はたまたま東京・池袋にあった長隆(おさ たかし)の東日本税理士法人グループの事務所を訪ねていた。

伊関が埼玉県庁を辞め、平成十六年四月から城西大学准教授に転じて、自治体病院の改革についての論文を矢継ぎ早に発表していたことはすでに述べたが、それが公認会計士であり、総務省に太いパイプをもち、全国の自治体病院の改革を数多く手がけてきた長隆(おさたかし)の目にとまり、一緒に仕事をやろうと持ちかけられていた。

長(おさ)と伊関が最近の自治体病院問題について話していると、一本の電話がかかってきた。相手は地方行政を管掌する総務省自治財政局の地域経営企画室長からだった。電話の趣旨は、巨額な負債を抱えて財政破綻した夕張市の市立病院の経営診断をやってもらいたいという最終依頼だった。

その電話から二ヵ月ほど前の六月十七日、北海道新聞夕刊は「夕張市財政再建団体に」と報じた。そして二十日、後藤健二夕張市長は市の財政自主再建を断念し、財政再建団体の申請をすることを市議会で表明した。当日、議場には多数の市民が駆けつけ、テレビ各局のカメラが長い放列をつくっていた。新聞各紙、テレビ各局はいっせいに「夕張市『破産』!」と報じ、その負債総額は五百四十二億円(その後ヤミ起債などが明るみに出て最終負債総額は六百三十二億円)、平成十七年度の税収(一般財政規模)が四十五億円だから、収入の十倍以上という膨大な借金であると書き立てた。財政破綻の公表を受け、北海道庁は二十九日夕張市への緊急検査を実施、病院事業会計も三十一億円の債務があることが明らかになった。マスコミは、老朽化した市立総合病院を経営破綻した夕張の象徴的な施設としていっせいに取り上げていた。

夕張市民のなかには第三セクターが借金しているから危ないのではと感じていた者もいたようだが、ほとんどは決算は黒字だから大丈夫と思っていたと語ってくれた。そして、発表を聞いて驚き、これからどうなるのだろうと不安を感じたという。

財政破綻が明らかになるかなり以前から、総務省は隠密裡に動いていた。このまま何もせずに手をこまぬいていたら社会不安を起こしかねないと判断したからだった。総務省地方公営企業アドバイザーをその年の三月まで十年間にわたって務め、全国の六十以上の自治体病院の経営改革に取り組んでいた長隆(おさたかし)は、夕張市が財政破綻により財政再建団体へ移行することを表明する数ヵ月前に、大西秀人自治財政局地域経営企画室長(当時)から、次のように耳打ちされていた。

「ある団体が破綻するかもしれません、赤字の病院を抱えていてそれが駄目になると地域住民の不安が広がります、それを防ぐためにもご協力いただけないでしょうか」

二人は、大西が地域経営企画室長として、長(おさ)が地方公営企業アドバイザーとして一年間一緒に仕事をやってきた間柄だった。長(おさ)は「久方ぶりの財政再建団体だから、火中に栗を拾うようなものだ」と思った。それでも総務省とは長いつき合いであり指名されれば、むげに断るわけにもいかない。四月から情報通信政策局地域放送課長に転じる大西からの打診を承諾した長(おさ)は、後任の和田裕生地域経営企画室長を紹介された。その間の細かいやりとりは覚えていないと長(おさ)は言うが、八月十一日にかかってきた電話の趣旨は、総務省サイドが北海道庁の市町村課とコンタクトをとり、夕張市長にも連絡したので、夕張市に出向いて正式に契約してもらいたいという電話だった。

事は急を要すると判断した長(おさ)は、単なるアドバイザーではなく、経営を立て直すためにきちんとした指導権を与えてくれること、一人で夕張市立総合病院の経営診断アドバイザーを引き受けるのは荷が勝ちすぎるので、病院経営と行政の両方がわかって何度か自治体病院の改革を一緒にやったことがある、目の前にいる伊関をアドバイザーに加えることを条件に応諾した。伊関にとっては、まるで降って湧いたような話だが、長に頼まれたとあれば否も応もない。

土日をはさんで三日後の十四日月曜日、長(おさ)と伊関は夕張に日帰りで赴き、後藤健二市長と契約を結んで委嘱状を受け取った。といっても、財政破綻した夕張市からアドバイザーとしての契約金や謝礼金が出るわけではない。財政再建団体の申請を行ってからも不適正な会計処理が次々と発覚し、その対応に追いまくられて計画策定もできずにいた夕張市に、出せる金はほとんどなかった。総務省とも北海道庁とも契約関係にはなく、二人に対する報酬は、調査活動費はもとより、交通費、宿泊代、さらには経営診断のためのスタッフの費用等、すべてといっていいほど無償で、いわばボランティア活動だった。

それでもいったん引き受けた以上、長(おさ)の行動は素早かった。長(おさ)が自治体病院の再生のために平成十六年に設立したグループ企業「医療シス研」に所属する公認会計士、コンサルタントを中心に総勢十二人からなる再建プロジェクトチームをつくった。そのなかには、医療シス研の顧問をしていた村井隆三が医師として名を連ねている。村井は、後に公設民営の夕張市立診療所、夕張医療センターを立ち上げる際、重要なバイプレーヤーを演ずる高橋宏昌を、村上に引き合わせるという役割を演じる。そのため、話はやや横道にそれるが、村井が再建プロジェクトチームメンバーに加わる経緯についてふれておこう。

平成十六年十二月、東京慈恵会医科大学外科学講座第一助教授だった村井隆三は、医療用内視鏡のシェア七〇パーセントを占めるオリンパスの孫会社ティーメディクス社の岡田社長から内視鏡専門クリニックを開かないかと話を持ちかけられる。岡田は、かねてより知己だった村井にこう口説いたという。日本では大腸がんが猛烈な勢いで増加していて女性の死因の一位になっているが、内視鏡検査が二百万-二百五十万件で横這いの状態にあるのは、供給する医療機関が少ないからで、なんとか増やしたい、ティーメディクス社はクリニック開業支援をはじめるので、その第一号として開業してみませんかと。その頃は開業する気がなかった村井だが、岡田の熱意に打たれて「やってみましょうか」とトントン拍子で話が進み、翌年の三月には「村井おなかクリニック」を開業する。

専門の消化器外科以外にも東京医科歯科大学大学院で医療経済学を講じる村井は、かねてより医師は医療に専念すべきで、クリニックの管理運営は外注したほうがいいという考えをもっていた。そのため、事務長の派遣を含めてマネジメントは、ティーメディクス社にすべて外注することにした。クリニックの運営は順調に推移し、平成十八年の五月にニカ所目を出すことになり医療法人をつくらなければならないことになった。法人設立の手続き業務について依託できるところを探していると、ティーメディクス社のスタッフが、長が代表として率いている東日本税理上法人を推薦、そこに依頼することにした。

法人設立の手続きはスタッフに任せた長だったが、医療とマネジメントの分離という村井の経営スタイルには興味をもった。長は、村井に「スタッフにドクターがいないので、手伝ってくれませんか」と申し出て、医療シス研の顧問に迎え入れ、四月からとりかかっていた愛知県高浜市立病院の視察に一緒に出かけていた。そんな経緯で、村井は夕張市立総合病院の再建プロジェクトにも名を連ねたのだった。

話を戻そう。長(おさ)が率いる九人のチームと伊関は、八月二十三日に夕張に入り、翌二十四から即座に経営診断にとりかかった。伊関は、二十六、二十七日は埼玉の地元で先約があったため、二十五の夜にいったん帰り、二十八日の朝一番の飛行機で夕張に戻るという変則的な強行スケジュールになった。病院の職員たちや夕張市の保健師たちに対する聞き取りとアンケート調査は、医療シス研の職員が精力的に行い、二週間にわたってほぼ徹夜に近い態勢で分析した。

 

第二章 発端  改革案

伊関と経営診断のスタッフは、精力的に聞き取り調査を続けて夕張市立総合病院の問題点を把握し、平成十八(二〇〇六)年八月二十九日には診断書と経営改革案をほぼ書き上げた。八月二十九日の夜に夕張に入った村井隆三は、伊関が書き上げたリポートを医師の視点からチェックした。医師として一点、救急患者についてコメントをした。それは市内で発生した救急患者は、対応できる医師がいないのにかわらず、とにかくいったん市立病院に搬送し、市立病院医師の指示を受けてから他の病院に搬送していたからだった。夕張市の市街は南北に長く、南の地区から北端に位置する市立病院まで車で三十分はかかる。医師不足で対応できないとわかっていても、救急隊の「お役所体質」から、何も考えずにシステマチックに一度市立病院に運んで、そこから他の地区の病院に搬送すると一時間もロスが出る。もし一刻を争う重症患者だとしたら、生死にかかわる問題だった。その後、市立病院の医師に連絡をとって指示を受けるという形に変更したが、それでも相変わらず搬送は続き、それが医師たちの負担を増大させていたことは否めなかった。

八月三十日、後藤健二市長、岡崎光雄市議会議長をはじめ病院の医師、職員スタッフ、道職員、報道陣など約八十人が市立総合病院の二階講堂に集まった。長(おさ)は若手の伊関に、「経営診断」と「経営改革案に関する意見書」(中間報告)を読み上げさせた。それらの全文は、伊関のブログに掲載され、またこのリポートをもとに分析を深めた論文が『まちの病院がなくなる!?』(時事通信社)で一章を占めているので、詳しくはそちらをお読みいただきたい。伊関は、集まった市職員や病院関係者の前で、声を大にして次のように断じた。

「『親方夕張市』の意識をもつ夕張市職員が病院を運営することは困難である。過去、市議会議員や監査委員が夕張市立総合病院の抜本的な改革の必要性を訴えてきたにもかかわらず、市当局は問題を先送りしてきた。この点は厳しく指摘されなければならない」

自らも役所勤めをしたことがあり、多感で情にもろい伊関は、「大変残念なことではあるが、病院の医療スタッフは全員退職し……」と読み上げたところで、感極まって声を詰まらせる。それを横で聞いていた長は、伊関の足を突っつき「アドバイザーは冷静に」と小さな声を掛けて励ますという一幕もあった。

伊関は続けた。夕張市が病院を開設するものの運営は民間事業者が行う「公設民営」方式で病院を運営すべきであり、医師不足の現状から、確保できる最小限の医師でできる範囲の医療を行わざるを得ず、必要な最低限の病院機能は存続させる。入院患者の大多数が高齢者であり、彼らの行き先を失うということは絶対に避けたいが、医療だけで対応するのではなく、福祉との連携で対応することを考える、と述べた。

さらに、「経営改革案」では、再建について準用財政再建団体の申請を行い総務大臣から財政再建計画の承認を受けて、病院事業の新しい体制の確立を目指すようにと具体的な道筋を示した。主なポイントは、平成十九年四月一日から夕張市立総合病院について指定管理者制度を適用、病院の土地・建物は、指定管理者となる医療法人に二十年間医療を継続する条件で無償貸与、総合病院をダウンサイジングして市立病院に変更、百七十一床の病床については、後述する老人保健施設の開設に合わせ、一般病床三十床に減床する。外来診療は、内科、整形外科およびリハビリテーション科を維持する。後にマスコミを騒がせることになる人工透析については、この時点では存続するものとされていた。

また、現在の病院に勤務する医療職の職員については、夕張市を原則退職して新しい指定管理者の運営する医療法人に再就職を希望する職員は、可能な限り採用されるよう指定管理者の選考において配慮するというものだ。

黒字の南清水沢診療所については、この時点で市立総合病院に統合すると所長の立花康人医師が辞めてしまいかねず、代わりの医師を探すことが困難なため、現状維持のままにした。新しい指定管理者となる法人が決まって、立花がその法人で働きたいといえば経営統合すればよいし、独立したいといえばそれでも構わない、と経営アドバイザーは考えたという。

指定管理者に対する財政措置については、夕張市は指定管理者への委託にあたっては、必要な医療水準の確保のため、地方公営企業法の規定する範閉で、市の一般会計から繰り入れを行うことと、病床の減少に基づく五年間の地方交付税措置分の一般会計からの繰入金(百四十床減床の場合、五年間で合計約三億四千万円程度)は、指定管理者制度を運営する医療法人に交付し、安定的運営の原資にすることと記されている。

そして、夕張市は九月までに夕張市立病院改革推進委員会を新たにスタートさせると同時に、病院改革室を平成十八年九月四日に設置し、病院内に財政再建計画の策定および指定管理者制度の導入のほか、病院改革のすべてに関しての事務を行うこととされていた。

この経営改革に関する意見書は、長および伊関の両アドバイザーが、総勢十一人のスタッフとともに調査・作成した経営診断中間報告書を参考に策定したもので、同意見書には「調査中に本院の常勤医師が二人になるということが明らかになる異常な事態を踏まえ、夕張市に病院を残すためのぎりぎりの選択として提示したものである」と書かれていた。また、本意見書受領後、市長は直ちに指定管理者制度の導入を前提とした作業に着手するように期待すると、付記されていた。

前述の夕張市立総合病院の歯科医師八田政浩は「改革案」を聞き終えて、一瞬頭の中が真っ白になり、ついにその日が来たかと思いつつ、今後の行く末について途方に暮れたという。職員たちの反応は、来るべきものが来たといった、あきらめムードを漂わせていた。職員全員解雇という。再建案に対しても、労働組合の反対はなかった。

 

指定管理者探し

再建案が発表された翌週の月曜日、病院内には病院改革室が設置され、室長には市役所からの出向で藤岡宏毅が就任した。藤岡はすぐに全国の病院、医療法人に指定管理者を引き受けてもらえないかと電話をかけまくった。しかし、財政破綻した自治体の赤字体質の病院を引き継いでやろうという奇特な人物はいなかった。夕張市も二十日の定例市議会で公表する予定だった再建案を、引受先の意向次第では委託料や病床数の変動要素が大きいなどの理由で先送りした。

ただ時間だけが費やされていくだけという事態に、アドバイザーの長隆と伊関友伸は焦りはじめていた民間の医療法人が病院の運営を引き継ぐには、一定の準備期間が必要となる。再建策を先送りすることで時間切れとなり、夕張の医療が継続できない危険性が高まっていたからだ。

村上から伊関にメールが送信されてきたのは、そうした状況下でのことだった伊関は長(おさ)に、村上の人柄や旧瀬棚町でやってきた実績について説明し、「考えられる最高の人材です」と言って、打診してみる価値があることを説き、了解をとりつけた。

こうして伊関は村上に会い、夕張の医療再生に尽力してもらうことに快諾を得た。村上は、夕張市の病院経営アドバイザーの総責任者である長隆と会って話をしなければならないと思い、十月には上京して東日本税理士法人を訪ねた。湯沢での診察を終えてから新幹線に乗ったため、東京に着いたのは日もとっぷり暮れていた。「ガイアの夜明け」をテレビで見ていた村上は、長(おさ)のことを怖い先生と思い込み、最初はただ黙って長の意見を拝聴するだけだった。それでも時間がたつにしたがって打ち解け、村上は彼が考える地域医療のあり方として予防医療、在宅医療が大切であるという持論を話した。

また、夕張のことを少しでも知っておこうと、村上は伊関から贈られた『北炭夕張炭鉱の悲劇』(彩流社)を読んでいた、それは昭和五十六(一九八一)年、北炭夕張炭鉱で起きた死者九十三人を数える大事故を境に、会社が倒産するまでを書いたノンフィクションで、政界を巻き込んでの労働争議の舞台裏を追っている病院や医療はもとより、夕張市の行政や住民については何も書かれてはいなかったが、炭鉱事故の悲惨さ、国の政策に振り回されてきた従業員の哀れさについては窺い知れた。

当時、長(おさ)は伊関が村上に依頼するのと相前後して、再建プロジェクトメンバーの村井隆三に夕張市立総合病院を引き受ける気はないかと水を向けていた東京都の多摩地区で二つのクリニックを開設している村井は、夕張を引き受けるか否かはおくとして、公設民営でやるとしたら事業計画はどのようなものになるか、ティーメディクス社に試算を依頼してみようと思った。東京医科歯科大学大学院で医療経済学を講じる村井は立場上、事業計画のシミュレーションを見ないことには、返事のしようがないと思ったからだった。ティーメディクス社には五十人ほど社員がいたが、そのなかから推薦されたのは、北海道出身で母親が夕張出身のため夕張について関心があり、病院経営のコンサルタント業務に秀でていた高橋宏昌だった。もちろん村井とは初対面だった。

高橋は、北海道大学大学院経済学研究科修士課程修了後、いくつかの企業を経て、当時急性期病院(病気やけがの発症期において治療を積極的に行う病院、療養型病院に対して使う)を対象に経営改善のコンサルタント業務に従事していた。働き盛りの高橋は、ティーメディクス社の社員として、いろいろな前提条件のもとで事業計画の試算をはじめた。

村井は、医療経済学について教鞭を執っていた関係で知り合った戸田建設の病院建築チームのスタッフに連絡をとり、夕張市立総合病院の改築、改修の見積もりを出してもらうように依頼する。そして十一月三日の文化の日、村井は高橋と戸田建設の社員らと共に夕張に行き、病院内を視察した。老朽化が進んでいる建物の改修費は、ざっと見積もっただけで五、六億円はかかるだろうという話で、かなりの費用は北海道庁なり国なりが負担してくれるとしても、この事業は困難だと思われた。

それからしばらくして、高橋は詳細な事業計画の試算表を持ってきてこう言った。

「これはあきまへんわ、経営的には。ただ、やり方によっては面白い案件といえないこともありませんけど……」

村井は高橋から言われるまでもなく、夕張市立総合病院を引き継ぐことは断念していた。建物の改修費用はおくとしても、病院長のなり手がいない。すでに二つのクリニックを運営している村井は、自分が院長になるわけにはいかないのだ。

十一月中旬になって、村井は長(おさ)にこのことを話す。このときはじめて、長(おさ)は伊関を通じて越後湯沢の医療センターに勤務している村上医師に交渉していて好感触を得ていることを打ち明けた。村井は、奇特な人がいるものだと感じ入って興味をもつと同時に、乗りかかった船で自分にできることがあればと思い、会ってみようとアポイントをとった。

十一月二十日、村井は高橋と連れ立って越後湯沢に出かけて村上に会った。湯沢の寿司屋で初対面の挨拶をした村井は、村上に夕張市立総合病院を引き継ぐとしたら法人を設立しなければならないこと、自分が法人をつくった経験上、マネジメントをきちんとできる人が必要であることや、資金繰りなどについて話し、高橋は事業計画の試算表を見せて問題点を指摘した。村上は高橋の説明を聞きながら、夕張市立総合病院を引き継ぐとしたら、こうした事業計画を立てられる病院経営に明るいプロと一緒にやりたいと思った。

その日は偶然だが、長(おさ)と伊関が札幌で医療シス研のセミナーで「地域医療再編と自治体病院経営のこれから」について講演し、夕張市立総合病院の話にもふれた日であった。夕張のことが気になった伊関は、すでに述べたように翌日、夕張にまで足を延ばして病院を訪問した。そして、村上に医療法人の件はひとまずおくとして、できるだけ早く夕張に来てもらいたい旨、電話し、村上も了承したのはすでに述べたとおりだ。伊関の要請を受けて村上が夕張に「代診」で行くことを表明し、マスコミがそれを報じた状況と呼応するように、長は夕張市立総合病院の「無床診療所案」を口にした。長は、インターネット上に市民記者の記事を掲載するオーマイニュースの取材に対し、「再建計画案を出した八月時点では三十床程度の病院機能を残すとしていたが、その後の調査で必要ないということがわかった。むしろ無床診療所でも構わないと思っている」として、同病院のさらなる縮小は必然との見方を示した。それは村上が応援から医療法人を設立して指定管理者に公募するときのための下地づくりだった。

長(おさ)は取材に対して、おおむね次のように語った。夕張市立総合病院は、十科百七十一床を標榜してはいても、医師不足などで大半の診療科は月一回から数回の診療しか行っておらず、病院全体を覆う活気のなさは再建にあたって最も深刻である。救急病院の指定を受けていたが、夜十時には急患は終了して、後は近隣の栗山赤十字病院、岩見沢市立総合病院などに任せていた。九月からは、内科、整形外科以外の救急受け入れは行っていない。そして、来年四月からは、在宅医療や予防活動を中心とした地域医療の拠点診療所として整備を図っていく。夕張の医療再建の絶対条件は、市の金をできるだけ使わず立て直すことと、医療の質を上げること。総合病院が診療所になっても、少なくとも夕張市における医療の質を下げないということは守れると。

十二月六日の北海道新聞は、「村上医師ら診療所を想定」して北海道庁に医療法人設立を申請したと報じ、「法人認可が先決だが、新しい地域医療の形を模索しながら、市民の安心を確保したい」という村上のコメントを載せた。

 

第七章 絶望の中の光  雪に埋もれた市立総合病院

村上は一人で毎日百五十人の外来患者を診ながら、四月から開設する診療所の準備にとりかかった。まず、医療法人の設立をしなければ、指定管理者になって市立病院を引き継ぐことはできない。

十一月に長(おさ)が率いる「シス研」のスタッフが事前審査の書類を出したことはすでに述べたが、十二月に入ると某夕張市議会議員と懇意にしている道議会議員によって妨害工作がはじめられた。道議会において「これまで道庁は開業医としての経営実績を求めて、それがないと医療法人を認可してこなかった、村上医師は経営実績がないので認めるべきではない」と主張したのだ。これに対しては、長が水画下で総務省と北海道庁に揺さぶりをかけたことで、道の保健福祉部長は「住民の医療が確保されるよう弾力的な運用を図る」と答え、今後は「開業医としての経営実績」を必ずしも問わないとの方針を明らかにした。妨害工作はさらに続いたが、長はこうした医療法人設立に対する嫌がらせに対して、いくら妨害しても法人設立には一向に影響しないが、さらに何かするようならマスコミにその事実を公表すると通告し、いったんは沈静化した。

長(おさ)のスタッフの協力を得て事前審査の書類に修正を加え、翌年一月初めに北海道庁に村上を代表とする医療法人の設立を本申請、道庁は土日に受理した。法人設立の認可が下りたのは二月二十七日、認可証が交付されたのは三月一日で、四月の診療所オープンまで一ヵ月しかなかった。医療法人は南清水沢診療所を拠点に三月二十二日に登記したが、これで一件落着というわけではなかった。

医療法人設立の申請を道庁が受理した後の一月十九日、市議会財政再建調査特別委員会で某市議会議員が「南清水沢診療所は年間二千万円の黒字になっており、立花康人医師は地域住民の信頼が高く、単独運営が可能」と指摘した。後藤健二市長は、その議員の意見に沿って病院に付属する南清水沢診療所を市立総合病院本体から切り離したうえで、四月からは同診療所に勤務する立花康人に運営を委ねる方針を固めた。そのため、村上の医療法人は四月から拠点を失うことになり、厚生労働省の指導のもと北海道庁は早く拠点を決めるように何度か迫った。そのたびに、歯科を拠点にしようかなどという議論が持ち上がったが、そうするためには入口を別にしなければならないといった、はたから見ればどうでもいい無駄なやりとりをくり返した末、特例で認めるということで決着したのは七月に入ってからだった。

 

「希望の杜」というネーミング

医療法人財団を申請するにあたって名前を「夕張希望の杜」にしたのには、次のようなエピソードがある。話は本筋からややそれ、かなり前にさかのぼることになるが、財政破綻の元凶である中田鉄治もからむのでざっと紹介しておこう。

中田鉄治は平成十五(二〇〇三)年四月まで市長を続け、その年の九月に死去するが、彼がまだ健在の頃、国際映画祭を開催している夕張をロケ地に映画を撮ってもらいたいと東映に懇願した。それが実現したのが、吉永小百合主演作『北の零年』だった。ロケ地は夕張・鹿島地区などで、平成十五年の十一月から四十日間かけて撮影が行われた。夕張市ではロケ受け入れ実行委員会をつくり協力、すべてゼロからのオープンセットが十三棟つくられた。完成後、平成十七年二月の第十六回ゆうばりファンタスティック国際映画祭で特別上映される。そこに出席した吉永小百合は、「夕張は私のふるさとになりました。今後は町の宣伝部長になりたい」と語り、ロケ地の鹿島地区が平成二十五年にシューパロダムの拡張工事とともに沈むことになるため、できればみなさんの目の届くところに移して、思い出していただければと語った。夕張市民も保存を要請したため、吉永は国際映画祭の三日前に表敬訪問して高橋はるみ知事に、ロケセットを夕張に残してもらえないかと懇願した。

そのとき、長隆(おさたかし)はフランスに出張中だったが、報道を見て古永サイドに連絡をとり、財政難の北海道知事の一存で年間三百三十万円の維持管理費がかかるロケセットの移住を決められるわけがない、総務省に話してみましょうと約束した。長(おさ)の側面支援が功を奏したのか、夕張の財政破綻がまだ明るみに出ておらず観光地の目玉になると受け取られたためか、平成十七年九月に映画で使った「殿の屋敷」や「志乃の家」等ロケセットの一部を「石炭歴史の村」の一角に移住し、『「北の零年」希望の杜』と命名し、NPO法人夕張応援団「ゆうばり希望の杜」が管理、一般公開し、夕張の観光の目玉にすることになった。

長(おさ)は医療法人のネーミングについて話し合った際、明治政府から棄民されて一度は絶望に陥った人々が、幾多の苦難を乗り越えながら北海道の地で希望をつかもうとした映画『北の零年』のストーリーと、財政破綻によって絶望の縁にまでに陥れられた夕張市民を救うために公設民営で病院再建をしようとするプロジェクトを重ね合わせ、『「北の零年」希望の杜』の後半の名前「希望の杜」を使わせてもらって「夕張希望の杜」というネーミングはどうかと提案したのだった。

それにしても夕張市の財政破綻の引き金を引いた中田鉄治が映画のロケ地にしてくれるように懇願して実現し、それが回り回って赤字で破産した病院を引き継ぐ医療法人の名前になるというのだから、考えれてみれば皮肉な話だ。

 

タ張の医療をめぐる報道

医療法人の認可もさることながら、公設民営にあたる指定管理者の決定はさらに大幅に遅れた。総務省から指導権を付与された経営診断アドバイザーにより指定管理者を全国から公募することを平成十八(二〇〇六)年九月段階で決められていた以上、十二月に村上が医療関係者や市長など行政関係者を中心とする市民に対して自分の地域医療についての考え方を説明した時点で、夕張市は一般住民への公設民営についての説明会等を実施して公募すればよかった。しかし、病院をダウンサイジングして診療所にし、さらには人工透析を中止するといった村上たちの方針に対する住民への負い目からか、市側は公募作業をすぐには進めなかった。平成十九年一月十七日にようやく募集をはじめる方針を示したが、反対派の議員から南清水谷診療所の扱いや透析入院患者の転院などについて説明会を行うことを要求されると、日程をずらしてでも従わざるを得なかった。

反対派は、一月後半に行われた住民説明会で住民の不安感をあおった。住民たちは国と市がつくった再建案の過酷さに打ちのめされていたため、「常時診てもらえる病院として残してほしい」「人工透析は生死にかかわる、ぜひ取りやめないでほしい」「四月から公設民営にするというのは誰がいつ決めたのか?議会で説明したか」といった被害者意識を全面に押し出した意見が相次いだ。市側としては、そのような住民の意見や不安を無視して、指定管理者の公募を強引に進めるわけにもいかず、説明会を何度も開催した。

こうした被害者意識をさらにあおって日程を遅らせたのが、マスコミの論調だった。一部の住民の不安に迎合するマスコミは、夕張の医療を悲話として全国に報道した。その論調の代表的なものが、TBS特番「みのもんたの激ズバッ!ほっとけないSP」(平成十九年一月二十四日午後六時五十五分放送)だった。番組は、政治家、公務員による税金、年金の無駄遣いを検証しつつ非難するというもので、みのもんたが二十年ぶりに現場でリポートして注目された。みのは財政破綻した夕張市を訪れ、市民の状況について一月十七日、報告会見を行った。みのは「人工透析が必要な人が三十人もいるのに病院もなくなる。死ぬだけじゃないか。夕張は、政治に裏切られた悲劇そのもの」と怒りをあらわにした。そして、十二万人いた市民が十分の一になった雪深い街にショックを受けたと言い、八十歳を超えて一人で住む市民の姿に「涙が出た」と、お涙頂戴ストーリーとして紹介した。便乗したマスコミ、とくにスポーツ紙は格好の材料として記事にし、三月いっぱいでなくなる夕張市立総合病院の破綻をいっせいに取り上げた。こうした論調も、夕張市の指定管理者公募を遅らせた一因になった。

この一連の報道に噛みついたのが、前年十二月に大幅なダウンサイジングを示唆していた夕張市立総合病院経営アドバイザーの長隆(おさたかし)だった。報道の内容は、志の高い医師が赴任してくれ、順調な病院改革を行おうとしているのに不当な判断を国民に与えかねないとTBSに対して次のような抗議文を送った。

 

(透析の中止を指導した理山)

1 透析専門医がいままでもいませんでしたし、今後も採用できる見込みがありません。

みのもんたさんは透析が何とかならないのかと詰め寄っていますが、医師招聘せよといっていることになります。全力で努力していますが透析医に限らず小児科など専門医がいないことを以って夕張の改革不十分と視聴者に伝える報道姿勢は誤っています。透析中止を指導した私にまったく取材していません。遺憾です。

2 透析患者さんにほとんど迷惑はお掛けしません。三十分でいける日赤栗山病院が最近透析部門を増設して十分対応してくれます。

3 夕張市は通院の補助は出せませんが指定管理者は患者さんの交通費にいままで以上の負担はお掛けしません。

4 透析患者さんに病院はいま親切に相談に乗っています。切捨てなどありえません。三十九キロと長い市の全域から通院に最も合理的な病院が紹介されます。

5 これで改革か?誰も責任を取っていないというみのもんたさんの発言への反論。

公設民営で二〇〇六年度十億円の赤字は二〇〇七年度からゼロになります。逆に黒字で税金納付します。病院職員は全員、公務員の地位がなくなります。

本来過疎地に交付される税金投入が投入されておらず、病院現場に責任はないにもかかわらず全員異議なく公務員の地位を捨てていただくのです。

みのさんの市当局・議会・道庁の責任追及の姿勢は高く評価しますが、病院の真摯な取り組みがTBSの報道によって国民に誤解されることがないよう強く要望してまいりました。

報道に当たっては 患者さんの意見を聞いてくださる事は重要です。しかし私は、報告書を八月二十九日全市民に公開し意見募集いたしました。今日まで批判はゼロです。住民の意思を無視して指導はしていません。改革で最重要なことは一万二千人の外来診療を三人の医師に守っていただくことです。

透析に関しては、事実と異なるイメージを与えかねない報道や論調が多く見受けられます。透析医療を継続しない事は事実ですが、入院透析の患者さんは全て引受け病院が決まっていますので、「あとは知らない」、「追い出す」ということではありません。

通院透析の患者さんも、二十七人の患者さんに対し、恵庭は全員OK、岩見沢も全員OK、栗山十人、千歳四人は受け入れ可能です。恵庭と千歳は自宅(もしくはその近く)への送迎つきです。

(岩見沢と栗山は送迎なしです)。

受け入れ先と通院方法は示しているはずですが、報道ではなぜか正確に伝えられていないような気がしてならないのですが。

 

これに対して、TBSは一月三十日放映の「みのもんたの朝ズバッ!」で夕張市立総合病院の透析に関して、病院側の方針「交通費の補助などにより、これまで以上の負担はかけない」「通院時間の増加は最小限にとどめる」とし、透析患者の受け入れ先をフリップで紹介し、局として今後の支援を約した,その後もこの手の報道は続いたが、実情はかなり違った。夕張には市立総合病院を含めて五つの医療機関があり、近くの町にも病院があった。市立総合病院は、夜間のコンビニ受診と介護を必要とする高齢者の入院先として機能していたのであり、なくなったからといって住民の命に影響することはない。

それでもマスコミは同じパターンで番組をつくり続けた。同年の五月十三日放映のNHKスペシャル「夕張 破綻(たん)が住民を直撃する」に対しても、長(おさ)は虚偽の風説の流布、信用殿損の手段などで放送法に触れると厳重抗議した。しかし、視聴者にとって後のことは知り得ぬ話であり、夕張市民にとっても無縁のことだった。

ともあれ、住民の不安に対する説明会のくり返しに追われて、指定管理者の公募の日程はどんどん遅れ、二月七日公募、十三日締めきりという日程にまでずれ込んでしまった。この一カ月近い指定管理者選定作業の遅れは、医療センターの経営に後々まで妨げとなる。

みのもんたが夕張市民についての報告会見を行った六日後の一月二十三日、北海道新聞の一面に「『希望の杜』を野村支援」という活字が踊った。野村ホールディングス(HD)の百パーセント子会社「野村ヘルスケア・サポート&アドバイザリー」が債券を発行して資金調達をしようというのだ。これは四月から地域医療確保を目的とした社会医療法人制度がはじまることを受け、長の主導で「夕張希望の杜」が認定第一号を目指そうとしたもので、これに認定されれば有料老人ホームや介護用品の院外販売といった収益事業をすることが可能となり、野村ホールディングスは高齢化社会が進むなか、ビジネスチャンスは拡大すると判断して、支援しようとしたものだった。一月二十一目、夕張市で開かれた「希望の杜」の記者会見に同席した全国自治体病院協議会の小山田恵会長は、「病院の健全経営には理想の形」と新制度への期待を述べた。

村上は、長(おさ)の顔を立てて社会医療法人の認定を目指すことに賛同したが、それよりも診療所を立ち上げて軌道に乗せることで頭がいっぱいで、将来の収益事業のことを考える余裕などまったくなかった。

こうした夕張医療センターをめぐるさまざまな報道の経緯をまとめ、村上を側面から応援するかのように「健康は破綻させない」という見出しで、「『行く、夕張へ』医師が即断」という読売新聞の記事が出たのは、一月二十八日だった。これは、前年十一月二十五日の住民説明会の様子からはじまって、村上の経歴、「空いた場所には託児所や娯楽施設を作り、まちおこしの拠点にする……」といった構想も紹介していた。

村上は、すでに述べたようにこれまでのやり方を断ち切り、診療所としてスタートを切ろうとした。病院なら国から交付金が入るのにという外野の声もあった。しかしこれまでそれに頼っていたから営業努力をしてこなかったわけで、訪問診療や介護老人保健施設を併設するなどすれば採算はとれるとした。その考えに裏付けを与えたのが、村上が湯沢町で村井隆三に紹介され、三顧の礼で招いた高橋宏昌だった。彼は前年の十二月十日の集まりで長(おさ)のお墨付きも与えられ、一月五日にはティーメディクス社に在籍しながら夕張にやって来て、三月いっぱいまで開設準備室長の役割を担い、四月からは副院長に就任する予定になっていた。高橋は早速、いまは使われていない看護部長室を作業場として新しい診療所の立ち上げに加わった。すでに述べたように、高橋は私立病院の経営アドバイザーとしての実績はあったが、自治体病院の立て直しははじめての経験だ。それでも、診療所の詳細な収支見込みを試算、綿密な収支計画をつくりあげていた。

しかし、行政サイドの対応の遅れは、村上たちの当初の計画を大幅に狂わせ、ボディーブローのようなダメージを与えていった。医療法人の認可、指定管理者の決定もそうだが、診療所の大家となる夕張市との、老朽化した施設の補修、大きな建物であるために使用しない場所の無駄な水道光熱費等の補償問題についての交渉も難航していた。しかし、財政破綻して人手が減り、指揮命令系統が機能していない市役所からは、いつまでたっても色よい返事はなく、ただ時間ばかり過ぎていった。

それ以外にも、深刻な問題が山積していた。普通、病院が公設民営に移行する際、資本金のような形で当面の運営資金三億円ぐらいが補助される。しかし、財政破綻した夕張市から「一円も出せない」といわれている。勤務医の経験しかない村上に、資金力などあろうはずがない。村上は、長(おさ)や伊関から開発銀行、政策投資銀行などを紹介されて個人保証で妻に内緒で一億円以上の借金をする予定だったが、この時点ではまだ調達できていなかった。病院というのは、診療報酬が保険の支払い機構から入金されるまでニカ月間かかる。そのため、四月に開設しても、ニカ月間の収入は患者の自己負担金分の三割しか入らない。その間、職員の給料や医療に必要な経費は払わなければならず、資本金がなく、赤字を補填する部門もない夕張医療センターにとっては、赤字を出せば即倒産につながる。まさに綱渡りの状態だ。実際に医療法人「夕張希望の杜」が日本政策投資銀行、北洋銀行、北海信用金庫から合計一億二千万円の資金を調達できたのは、四月も二十五日になってからだった。

高橋は、まず市立総合病院が赤字になった主原因の職員の給与を見直し、四月からの新法人では手当などはすべて削るため、実質的に給料は下がる旨職員に伝えるようにと、村上に進言した。

それよりも大問題だったのは、四月の新年度から新体制を敷くための医師の招聘だった。これは遅くても一月末には募集をはじめなければならなかったが、指定管理者の公募・決定が大幅に遅れているためにできずにいた。医師の招聘が遅れれば、外来患者の数が計画より減ることは当然のこと、四十床の老人保健施設の運営もできないことになる。