東日本税理士法人は銚子市に対して、日本経済研究所の報告書の情報公開を求めた。市民に都合の悪い情報を秘密にする自治体・公立病院は医師の信頼を得られるはずがなく、必ず破綻する。 包み隠さず公開しなければならない。

 

 
東日本税理士法人は銚子市に対して 日本経済研究所の報告書の情報公開を求めた。 市民に都合の悪い情報を積極的に公開しない、自治体・公立病院は医師の信頼を得られるはずがなく 必ず破綻する。 包み隠さず速やかに、公開しなければならない。 
・・2009.03.13岩手日報によれば『銚子市長の岡野俊昭(62)は2008年1月民間の日本経済研究所に評価を依頼した。 2008年3月 同研究所の報告書は病院単独での経営改善は不可能と結論付けた。再建計画に望みを託していた岡野市長は病院の考え方は正しくないと言い出し、病院は孤立していくことになった』と報道している・・・しかし経営改善が不可能と断定出来るほど酷い状況なら 民間に経営を頼む事がそもそも本気であるとは思えない。 
残留する医師が12人がいたにも拘らず 何故再建不可能と決め付けたのであろうか? 
医師の数にあわせて 規模縮小で存続は十分可能なはずであった。いきなり潰す事が目的であったと言わざるを得ない。


★病院が消えた 銚子市長リコール問題★(中) 3年の覚悟 再建策に議会が反発 
2009.03.12岩手日報  
  

 銚子市長の岡野俊昭(62)が真顔で話し掛けてきた。「三年やる覚悟で病院を建て直してくれ」。やり手で通った水道部長の高城順吉(61)にとって予期せぬ一言だった。定年を一年後に控えていた。「でも、放っておけなかった」 

 二〇〇七年四月。市立総合病院の事務局長になった高城は、旧知の病院長、佐藤博信(61)とともに職員一人一人を院長室に呼んだ。「つぶれないから、心配しないで」。水道部長時代、内部留保から病院に七億円の緊急支援をしたことがあり、二人は病院の内情を熟知する仲だった。 

 手始めに高城は、医師不足を補おうと、近隣病院の医師を次々と非常勤にスカウト。遠隔地の医師を誘って銚子港の地魚を振る舞い、住宅や子供の通学問題の相談に乗りながら転居を促した。米国ニューハンプシャー州からやって来た内科医松井稔(45)もその一人。「高城さんの勢いにすっかり押されて」と笑う。 

 市に働き掛け、研究費名目で医師給与を上乗せしたり、医学部の学生向けに月々二十万円の奨学金制度をつくり、将来の研修医の確保に動いた。先を見越した再生プランだった。 

 「院長と電卓をたたき、売り上げをチェックする毎日だった」と振り返る高城。医師数はいったん下げ止まり、増加に転じた。〇七年七月から〇八年三月までに、入院患者も収益も一・三倍へと増えていた。「あと、市の支援さえあれば」。頼みの綱は、当面を乗り切るための六億円。だが、壁にぶつかった。 

 「そんな金出せるわけがない」「経営の見通しを出せ」。病院の再建プランに市議会がかみついたのだ。訳があった。 

 前市長時代、市内に千葉科学大を誘致するため発行した起債約七十億円の返済が〇七年度から始まり、市の財政に重くのしかかっていた。岡野は詳しい見通しを出すよう高城に迫ったが、「病院つぶしに使われるに決まっている」と拒否。結局、六億円は支出されたものの、市長と病院の関係は冷え込んでしまう。 

 〇八年三月。高城は佐藤に退職すると告げた。「あなたという片腕をもがれては、病院再建のオペはできない」と佐藤。悔し涙があふれていた。二人は相次いで病院を去った。病院長を慕った医師たちも後に続いた。 (敬称略) 

 市立病院の医師不足とは 2004年に導入された「臨床研修制度」の影響で、銚子市立総合病院に医師を派遣していた日本大が引き揚げを開始、医師不足に陥った。01年のピーク時に39人いた常勤医師は、休止発表の08年7月に12人まで減少した。 


  
  

★病院が消えた 銚子市長リコール問題★(上) “医療難民” 転院で「16人死亡」も 
2009.03.11岩手日報   
  

 「病院は大丈夫です」 

 昨年四月、千葉県銚子市の市立総合病院に入院した時田愛子(93)は落ち着かなかった。病院内を飛び交う休止のうわさ。打ち消す看護師を、ベッドの上から不安げに見上げていた。 

 足先が壊死(えし)し、血流が悪くなる病。寝たきりで、気持ちもふさぎがちだったが、入院後の経過は良好。気軽に見舞いに来てくれる家族や知人と会話も弾むようになったころ、休止を告げられた。入院三カ月目だった。 

 自宅から二十キロ離れた千葉県旭市の病院に転院を余儀なくされ、八月末、ストレッチャーに横たわり介護タクシーで運ばれた。休止のショックに厳しい残暑がこたえた。一日に何度も吐くようになり、容体は急変。転院からわずか十二日後に亡くなった。 

 「病院が存続すれば、母はもっと長生きできたかもしれない」。愛子の長女節子(68)はそんなやるせなさから、市長のリコール(解職請求)運動に参加、署名集めに奔走することになる。 

 昨年九月の休止を決めた市長の岡野俊昭(62)は「全員が無事転院できた。“医療難民”は出ていない」と説明してきた。真相を確かめようと、リコール派「『何とかしよう銚子市政』市民の会」は患者たちの追跡調査を続けている。 

 「腹痛で隣県の病院まで搬送が四十分かかり、痛くて気を失いそうになった」「自宅から数十キロ離れた病院に通うタクシー代は百万円を超えた」 

 事務局長の加瀬庫蔵(59)は「転院後亡くなった患者は少なくとも十六人確認した。病院が休止している間、“医療難民”はなくならない。一刻の猶予もない」と語気を強める。 

 「お元気でしたか」。千葉県山武市が出資する国保成東病院。内科医の松井稔(45)は、ジャンボタクシーで銚子市からやって来た患者らに声を掛けた。 

 松井は銚子市立総合病院の元勤務医。休止後、山武市長にスカウトされ、患者を継続して診たいと申し出ると、ジャンボタクシーの送迎を提案された。月一、二回、銚子市から片道約一時間半かかる通院のタクシー代約三万円は病院持ちだ。 

 松井は言う。「銚子市長も患者や医師と向き合ってくれたら…残念でならない」 

   ◇  ◇  

 地域の中核病院が突然消えた。リコールの住民投票が告示され、その是非を問う。空前の休止劇を追った。 (敬称略) 

 銚子市立総合病院とは 1950年設立。ベッド数393、内科や外科など16の診療科を持つ千葉県東部の中核病院の一つだった。精神神経科には近隣自治体からも患者が集まり、約1千人の患者が通院した。しかし不採算部門が経営を圧迫。医師不足が重なり、2008年9月末に休止した。 


 ★病院が消えた 銚子市長リコール問題★(下) 甘い見通し 県の支援間に合わず 
2009.03.13岩手日報  
  

 二月下旬。千葉県健康福祉部理事の山本尚子(48)は、自室を訪れた記者を前に思わずこぼした。「まさか病院がつぶれるなんて」。休止した銚子市立総合病院の再建に取り組んだ、県の事実上の事務方トップ。深いため息の後、口を開いた。「もっと早く介入すべきだったかもしれない」 

 休止十カ月前の二〇〇七年十一月。県庁会議室のテーブルに、A4判の紙十二枚が置かれた。病院事務局長の高城順吉(61)らが持ち込んだ経営健全化計画だった。手に取った山本の表情はみるみる曇っていく。 

 医業収益が毎年増え、三年後には黒字に転換。医師も看護師も年々増加―。「どうしてこんな数字が出るの」。山本の指摘に「この計画でやるしかない」と主張する高城。次の会議のため、山本は席を立つ。「わずか三十分。言い合いに終わった」と高城は振り返る。 

 計画の甘さを指摘され、市長の岡野俊昭(62)は〇八年一月、民間の日本経済研究所に評価を依頼した。前月、国は「公立病院改革ガイドライン」を発表、自治体病院の経営効率化を強く求めていた時期だ。 

 二カ月後。同研究所の報告書は「病院単独での経営改善は不可能」と結論付けた。再建計画に望みを託していた岡野は「病院の考え方は正しくない」と言い出し、病院は孤立していく。 

 厳しい評価結果を知り、県は慌てて動きだす。四月下旬、銚子市を訪問した山本は財政担当らと会う。「初めて財政全体を知った。持たないかもしれないと思った」 

 県の経営検討チームができたのは五月。事情を知った県知事の堂本暁子(76)から岡野の携帯に「相談に乗りましょう」と声も掛かるようになった。しかし…。 

 「病院は赤字。返済のめどが立たないのにお金は投入できなかった」と県市町村課幹部。六月下旬、地元の千葉大からは「年度途中の医師派遣は無理」と返事が届く。 

 七月四日。岡野の元に病院長代理から報告が上がった。「病院に残れる医者がいません」。休止発表はその三日後だった。 

 市民を襲った病院休止劇。その是非を問う住民投票は二十九日、審判が下る。(敬称略) 

 公立病院改革ガイドラインとは 経営効率化や再編を進めるため、総務省が2007年末に打ち出した指針。病院事業を営む自治体は改革プランを08年度中に策定し、医業収益に対する職員給与の割合など3指標について数値目標を設定するよう義務化。独立行政法人化や指定管理者制度の導入を検討するよう求め、実現目標を13年度までとした。